2011年1月30日日曜日

永田耕衣 × 土方巽(4)

大畑  等




土方巽の衰弱体


一個の肉体の中で、人間は生まれた瞬間からはぐれているんですね。-土方巽 ※1

てのひらというばけものや天の川  耕衣(『闌位』)


耕衣の書画 ※8
















永田耕衣は朽ちていく茄子を前に「衰退のエネルギィ」を凝視する。一方土方は自分の肉体の闇をむしって食べる。そこで見出すものは「衰弱体」であり、憑かれた肉体は「衰弱態」となり踊る。生命と物質の境界で「あらゆる事物はひとりでに踊る」(ニーチェ)のか。衰退と衰弱、耕衣は〈茶化し〉てカラッと言うが、土方は対談・講演・物語で「衰弱体」を饒舌に語る。ここでは土方を通して耕衣を見ることになるだろう。


舞踏とは命がけで突っ立った死体である   ―土方巽 ※1

芦川羊子の回想。
―舞踏論をとうとうと聞かせながら、先生は氷屋ののれんを通して外を歩く人を見て、「彼らはみな死人なんだ」「死んだ形を運んでいるんだ」と一生懸命喋っていました。                             (後略)  『土方巽頌』より

また、土方は芦川にこうも言ったようだ。
―歩行者一人一人はそのカラダに死者をかかえ歩いているんだよ。
                            『舞踏の水際』中村文昭より

土方自身は次のように書く。
―断頭台に向かって歩かされる死刑囚は、最後まで生に固執しつつ、すでに死んでいる人間である。死と生の強烈なアンダコニズム(抗争)が、法律の名の下に不当な状態を強いられた、この一人の人間のうちに局限化され、凝集的に表現される。歩いているのではなく、歩かされている人間、生きているのではなく、生かされている人間、死んでいるのではなく、死なされている人間・・・・・この完全な受動性には、にもかかわらず、人間的自然の根源的なヴァイタリティが逆説的にあらわれているにちがいない。「今や、断頭台上に立ち手を縛られた罪人は、まだ死んではいない。死ぬには一瞬間が足りないのだ。死を猛烈に意欲するあの生の一瞬が・・・・」とサルトルも書いている。かかる状態こそ舞踏の原型であり、かかる状態を舞台の上につくり出すことこそ、僕の仕事でなければならない2

そしてこうも話す。
―私の身体のなかで死んだ身振り、それをもう一回死なせてみたい。死んだ人をまるで死んでいる様にもう一回やらせてみたい、ということなんですね。一度死んだ人が私の身体の中で何度死んでもいい。それにですね、私が死を知らなくたってあっちが私を知っているからね。 3


ここの死体はまったき死体ではない。耕衣の「衰退のエネルギィ」の茄子が朽ちて、物質になる前の「一瞬間」と言えば良いのだろう。『疱瘡譚』で土方は立つことが出来ない病人を踊る。小さな部屋に閉じこめられて、生涯立つことが出来ない病人、その病人が死を前にして、一度でいいから立ちたいと決意して立とうとする。土方は「その瞬間は、最高のバレリーナがトオで立ち上がった瞬間よりも美しい」と語る。歩行しようにも歩行できない、立とうと思っても立てない、立ったと思ったら崩れる。ようやく立っているその状態を土方は「灰柱」と言い、それは土方・暗黒舞踏の原点であった。


「疱瘡譚」 ※4














笠井叡は土方の即興の踊り(「降霊館死學」)を次のように語る。
―完全に自分の体を客体としてモノにまで還元した踊りを、私はそのとき初めて見ました。ダンサーというのはいくらやっても、自分の体をモノにまでするのは、自殺する時くらいでないとできないですよ。それを自殺にやや近いくらいに自分の体を客体化して踊ったのです。手をひとつ動かすにも、普通のダンサーは中から動かすのですが、完全に外から動かしきった、そういうダンスでした。※4 
―ダンサーには、いくらなんでも自分の体を客体化するなんてできないわけです。体の中にいるわけだから。私の知るかぎりでは、あそこまで自分の体を客体として使ったダンスは他にありません。(中略)
それから、思い出すのは、三島さんの『午後の曳航』の台詞を受けて、「三島さんは本当に人間の思想は脳から生まれると思っているのかな、俺はそうは思わない」って私に言ったことです。 4 

西洋の哲学は、身心二元論のなかで、心(精神・理性)を重視し体を貶めた。端的にはデカルトの「われ思う、ゆえにわれ在り」で、心の側から身体を切り離した。身体の復権はニーチェまで待たなければならなかった。ここで土方は身体の側から心(精神・理性)を切り離した。笠井が語る「あそこまで自分の体を客体として使ったダンス」とは、「死んだ形を運んでいるんだ」と土方が語る人の、「死ぬには一瞬間が足りない」人間のダンスなのだ。

再度、土方のこの言葉はどうだろう。
一個の肉体の中で、人間は生まれた瞬間からはぐれているんですね。1

土方は幼児のときの記憶を書いている。農繁期には両親は田んぼに出る。子供は飯詰(いづめ)に入れられて田んぼの畦に朝から月の出るまで放っておかれる。飯詰とは御飯を入れる藁の丸い桶である。飯詰にはいろんなものが詰められ、出られないように結わえられる。

―子供ですからたれ流しでしょ、下半身の世界が、むずかゆくなるわけです。それで泣くんです。(中略)ピャーッと泣くけれども、働いている人には届かないんですよ。田んぼだから、空があまりにも広くて、それから風でしょう。だから、空見て「大馬鹿野郎だ」と思いましたよ。
 夕暮れになって中から抜かれると立てないんです。完全に足が折れていて、いざりになっていますよ。子供は絶対に家族の顔を見ない。畳まれた関節がそこに置かれている。それは滑稽で、とても厳粛です。せっぱつまっているわけです。足が躰からスーッと逃げて行く気がする。行ったきり戻らない足はどこに行ったのか。それは子どもの飯詰にいじめ抜かれた躰だけが知っているような気がします。 5


※9
















そして土方は、農繁期に柱に繋がれている幼児のことを話す。
―(この幼児というのは)何か得体の知れない動きをやっている。自分の手に物を食わしたりしているのがいるんですね。(中略)それで子供は自分の手を、自分の手じゃない、自分の身体だけど自分の手じゃない物みたいに扱っている。だから自分を他人のように感じているんでしょう。時々耳をはずそうとまわしたり、いろんなことをするんですね。 4

飯詰の話は身近なこととして身体によみがえる。正座のときの痺れ、狭い座席で身動きできない満員電車での感覚。ときに叫びたくなるのだが、このとき全ては身体感覚のうちにある。当然、舞踏家は身体で表現する。思考もまた身体から、身体を手引きとして思考する。

精神科医の計見一雄は「精神を病むって本当か?精神は病めるのか?」と問う。この問いは土方の数々のことばのように衝撃的だ。精神医学は精神を肉体と切り離して考える西欧の伝統が生んだものである。計見の患者はこのように言った。

―俺の精神は病んでいない。精神は病まないんだ。こいつら(仲間の患者たち)だって精神の病気じゃないんだ。
計見は、では何が病んでいるんだと反問。
―それを考えるのがお前の仕事だろ。6

この患者は、まさに空に「大馬鹿野郎だ」と思う土方に近いようだ。土方は飯詰の話をそっくり肉体だけで語る。また、「自分の手に物を食わしている」子供の話も身近なものである。ぼやっと自分の手の指を眺めている幼児や自分の指を執拗に嘗めている幼児を見る。指は対象でありつつ自分であろう。ことばの獲得も自他の境界もここから発するのではなかろうか。しかし近代はこのような肉体を掘り下げなかった。土方はこう言う。

―自分の肉体の中の井戸の水を一度飲んでみたらどうだろうか。自分の肉体の闇をむしって食ってみろと思うのです。ところが、みんな外側へ外側へと自分を解消してしまうのですね。7

耕衣に句集『物質』(昭和59年刊)がある。同年、土方が耕衣宅を訪れている。

探されて居る身心や秋の暮
ねじ花の腐れ間長き女体かな

これらの句は耕衣が土方を思っての句であろう。しかしこの句集のほとんどの句は土方来訪前のものだ。

昔日のゆたかさに在り冬の蠅
たらちねを触りに行くや春の道
春風という肉体の行きずりぞ
寂しさをこぼさぬ蝿の頭脳哉
ひる蛭と嬰児に還り行く我は
炎天や十一歩中放屁七つ
炎昼の軒塞ぎたる乳房かな
物質に歳の消入るは寂しけれ
しみじみと牛肉は在り寒すずめ
物質にまで成長せよ雪の人
物質に過ぎざる生や蝿の中
空瓶に写らむ猪よ待てしばし
薄氷の平明のむごたらしさよ
掌で穴(けつ)をぬくめづめなり炎夏翁

俳句にはこなれていない「物質」「頭脳」「牛肉」などの言葉の使用、そのものとしては表情の乏しい「蠅」「蛭」の取り込みなど、言葉をも物質として使用しているようだ。耕衣の句はもともと日本語の抒情に引きずりこまれることを拒否したような句である。したがって、たとえば「孤独感」であるよりも「孤独」そのものに直面(ひためん)する。

また、俳人は俳句を制御できるものではない。日々を貫く身体感覚の流れが俳句を決定付ける。定型であるが故に。物質というテーマがあって句集名『物質』が出来たのではない。『物質』は後から発見され、名づけられるのだ。  
 
(続く)

1『土方巽全集Ⅱ』・河出書房新社 対談「暗黒の舞台を踊る魔人」より
2『土方巽全集Ⅰ』・河出書房新社 「刑務所へ」より
3『土方巽全集Ⅱ』・河出書房新社 講演「風だるま」より
4『土方巽の舞踏』 慶応義塾大学出版会 より
5土方巽全集Ⅰ』・河出書房新社 「犬の静脈に嫉妬することから」より
6『精神の哲学・肉体の哲学』木田元・計見一雄 講談社刊 より
7『土方巽全集Ⅰ』・河出書房新社 対談「肉体の闇をむしる」より
8「虚空に遊ぶ 俳人永田耕衣の世界 図録」・姫路文学館刊より
※9 細江英公写真集『鎌鼬』・現代思潮社刊より