水口 圭子
プラハへ手紙冬青空に雲が出て 石田よし宏
世界中の街の名前の中で、プラハほど人の心を惹きつける“響き”を持つのは他に余り無いのではないだろうか。たとえ行ったことがなくとも懐かしさを覚えると言っても言い過ぎではないくらい。それはたぶん、多く人に親しまれているドボルザークやスメタナの曲の底に流れるボヘミアの音楽が、郷愁をそそる旋律であることと深い関わりがあるのだろう。
私はもう15年ほど前になるが、一度だけプラハを訪れたことがある。ハンガリー、スロバキア、オーストリア、チェコなど中欧を旅するツアーに参加して3日間滞在した。4ヶ国の中で、行く前から一番行きたくて、また一番印象に残っている街である。
プラハ城とその城壁の上から眺めた数々の尖塔の立ち並ぶ街、聖ヴィート大聖堂、カレル橋、旧市街の広場のからくり時計、ユダヤ人街のびっくりする程小さいカフカの家、ヴルタヴァ川(ドイツ語名モルダウ川)、おそらく今も変わらぬ風景で旅人を迎えているだろう。そう言えば、通りのあちらこちらでミニコンサートの案内の手作り看板を見かけたことを思い出す。街中に日常的に音楽が溢れていることを羨ましく思ったものだ。泊まったホテルの名前は「ドン・ジョバンニ」で、車で1時間くらい離れた所に、モーツァルトがオペラ「ドン・ジョバンニ」を作曲した館があった。
プラハは「黄金の都」とも「建築博物館の街」とも呼ばれ、世界遺産の美しい街であるが、チェコの首都として東西南北ヨーロッパの合流点に位置する故に、その歴史の中で幾多の苦悩を味わって来た。第2次世界大戦終結以降は、ソ連の主導による共産化が進むのに対抗したドプチチェク政権の民主化運動「プラハの春」(1968年)は、ソ連や東欧諸国の軍事介入によって抑止され、共産主義がより強化されてしまう。しかし再び民主化運動が高まり、ついに1989年、暴力や破壊活動を伴うことなく終束した無血革命・「ビロード革命」によって政治改革が達成されたのである。以後、1993年にはスロバキアが平和的に分離独立している。
さて掲句だが、作者はプラハに住んでいる誰かにではなく、「プラハ」の街そのものへ手紙を書いたと解釈したい。単に個人的な想いではなく、もっと社会的な立場で苦悩に直面していたのかも知れない。私利私欲に駆られ、広い視野を持てない周囲に対しての哀しみや怒りが「プラハ」を思い起こさせた。冬青空に出た「雲」が象徴的である。