2011年3月6日日曜日

永田耕衣 × 土方巽 (8)

大畑 等


世界にとび込まれた肉体


「土方巽と日本人」
(於日本青年館) ※18より


















前回は真鍮板と踊る土方(1968年10月、日本青年館での公演-写真上)を紹介した。そして、この舞踏の構想は、土方と元藤燁子の出会いの頃に出来ていたようだ。青年・土方のエスキスは『土方巽とともに』に紹介されている。その意図を含めて、断片的にここにひき写すと、
  
・楽器体として日本の高校生三十名ずつ計六十名。

・厚さ3mm、巾60cm、長さ1m10cmの真鍮板、アルミニウミ板を男女高校生に持たせる。

・高さ2m、巾1m50cmのアルミニウム板十枚も必要とする。

・十羽程の鳥の足にゆわえられた小さな金属板をライトで追い空間で運搬される音楽を視覚化する。鳥追いの音楽。

意図
・肉体に眺められた状態で発展するこの舞踏展示会は外側から運動として与えられた舞踏性は一切肉体の表面から放逐される。

・この舞踏展示は単なる肉体にまで還元されるもので個体がもち、所属している所番地、姓名をはずすと肉体のなかにその住所を与えるものといってよかろう。なにをするかでなく、なにをされたか、この場合の世界にとび込まれた肉体と解釈してよい。この作品は肉体に命令するのではなく、肉体を作る意図をもっているが、その為にも高校生を採用した。

・日本の小学唱歌と高校生が手にもっている金属板の合唱。

・小さな金属板が突如スクリーンになる。そこに映写される映像はこの切断された金属板によって切断されたり、運ばれたり、重ねられたり、伏せられたり、走ったり、投げられたりする映像として蘇生する。

・巨大なアルミ板十枚は一枚につき二名ずつの持つ人が配置され、二枚一組のかこいを作り、その間に上着をぬいだ高校生一人がその金属板に身体をぶつける。

難解な箇所もいくつかあるにはあるが、この展示会の高校生の肉体は「空っ箱だい」と言って子供の頃に土方が遊んだ、その「空っ箱」と言えば良いようだ。(参照(5))又は弦のない弦楽器(バイオリンやチェロなど)と言っても良い。周囲のあらゆるものを振動として受容する。真鍮板、アルミニウム板は震え、それを持った手を通して体に伝わる。

また、視覚はどうだろう。金属板に映された外界のものは「切断されたり、運ばれたり、重ねられたり、伏せられたり、走ったり、投げられたりする映像として蘇生する」。運動し生成するものの受容が行われる。山も人も動く。金属板に現れては消え、消えては現れる。

自分の顔、体は他の生徒がもった金属板に映りそして去り、替わって次々他の生徒の顔・体が写る。運動体としての映像は、固定されないから、一つは他を排除しないのだ。六十枚の動く金属板の舞踏展示会、自他の境界は運動のなかで消えていく。

金属板の映像はどうだろうか?真鍮板では暗く、闇のなかに溶けるように映っているだろう。一方アルミニウム板は白い影のように映っているだろう。いずれも「図と地」の境界はあやふやで曖昧になっているだろう。ここが鏡とは違うところだ。

※18

















知覚系は運動を固定画像のように捉えることは前回述べた。言語もしかりで、変化生成する世界を記述するには限界がある。ゼノンのパラドックス「飛んでいる矢はいつまでも的に届かない」は、運動を空間に置き換えて記述したときの矛盾を言い当てている。言葉も又疑わなくてはならないのだ。

たとえば犬の臭覚でもって人を描いたとする。人の匂うところ―口、尻、性器は肥大化して描かれることになるだろう。ピカソの絵どころではない。また鳥の足に付けた小さな金属板のきらめきにより音楽(聴覚)が視覚化される。このように全感覚を動的に働かせたとき、変化生成する世界は動くのだ。五感は脳にあるのではなく対象にくっつくように散らばり、体に戻る―絶え間ない往復運動。

「肉体の拡張」、「人間概念の拡張」は「なにをするかでなく、なにをされたか、この場合の世界にとび込まれた肉体」から始まる、それが土方舞踏の根本であった。

また土方のエスキスは「見る―見られる」「触れる―触れられる」など身体性の問題、「自己―世界」「自己―他者」等の戦後の思想・哲学上の問題を抱え込んでいる。言葉が事象の分析であることに対して、土方の構想は行為を通じて無意識にまで浸透していくものであろう。
(続く)
※18『土方巽を読む』 清水正著 鳥影社刊より