2014年6月8日日曜日

俳枕 江戸から東京へ(179)

山手線・田町(その10)
文:山尾かづひろ 挿絵:矢野さとし

広岳院










都区次(とくじ):前回は三田台地の東禅寺でしたが、今日はどこへ案内してくれますか?

一時はプロシャ公館五月闇   吉田ゆり

江戸璃(えどり):やはり三田台地で、広岳院(こうがくいん)へ行くわよ。  広岳院は曹洞宗の寺院でね。山号は医王山というのよ。寺号は信濃国飯山藩佐久間家初代藩主佐久間安政の嫡男勝宗の法名広岳院殿より名付けられたのよ。勝宗は享年28で父に先立って亡くなってね、そこで勝宗の菩提をともらうために安政が創建したのよ。佐久間安政は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将で、佐久間氏の一族で、母は柴田勝家の妹であるので、柴田勝家は叔父にあたるのよ。広岳院は赤穂浪士とも関係のあるお寺なのよ。赤穂浪士一行が、泉岳寺に引き上げてきたときに、泉岳寺では丁重に迎え、粥とお酒がふるまわれたと言われているわね。通常は、お寺は禁酒だけれど、特別の日だからということで酒がだされたようなのよ。これらの対応の指揮をとったのが、泉岳寺住職の長恩和尚と、副司(ふうす)の承天則地和尚だったのよ。副司というのは、禅宗のお寺で、食物やお金の調達を担当する職だそうよ。その副司の承天則地和尚がいたお寺が広岳院だったのよ。広岳院の6世住職だったそうよ。承天則地和尚はのちに、泉岳寺の住職となり、さらに曹洞宗の総本山である永平寺の住職(禅師)にまでなっているのよ。 広岳院は、幕末にはプロイセン公使の宿舎ともなっているわね。現存する広岳院の本堂は、弘化年間(1844~1848)の火事の後に再建されたもので、幕末の外国公館として使われていた建物の現存例としては唯一のものなのよ。
都区次:夕方になりましたが、今日はどうしますか?
江戸璃:普連土学園下のイタリアン酒場の「レンテッツア」の炭火焼スペアリブでワインを飲みたくなっちゃった。
都区次:いいですね。行きましょう。

泉岳寺










幕末のプロシア公館梅雨茫茫  長屋璃子
寺町の猫とて蜥蜴容赦せず   山尾かづひろ