2011年3月27日日曜日

俳枕 江戸から東京へ(13)

佃島界隈/勝鬨橋
文:山尾かづひろ

現在の勝鬨橋










勝鬨橋
都区次(とくじ): 築地本願寺の東にある勝鬨橋に行ってみましょう。この橋は初代の橋で、何代目というのではないのではありません。しかし架けられたのが昭和15年と遅いのですが、それまではどうだったのですか?
江戸璃(えどり):対岸の月島は元からあった島じゃなくて大方は明治25年より東京湾の浚渫の土砂を使って埋立てた島なのね。渡る手段としては日露戦争の旅順陥落祝勝記念として地元の有志によって設けられた「勝鬨の渡し」が唯一のものだったのよ。
都区次:勝鬨橋が出来るまで「渡し」で事が足りていたのですか?
江戸璃:昭和のはじめまでの月島は造船所に関係のない者には用のない場所だったのね。「渡し」を使うのは造船所の通いの職工さん位のもので、それほどの交通需要でもなかったのよ。昭和も少し経つと月島の石川島造船所が充実して一気に交通需要が増え、橋を架けることにしたのよ。その当時は陸運がパッとしていなくて隅田川を行く船が多かったので可動橋を計画したのよ。

都区次:造船所などの工場地帯への橋にしては格式のある造りですが?
江戸璃:勝鬨橋の完成する昭和15年は「皇紀2600年」で、月島地区で日本万国博覧会の開催を予定したのね。それで御大層な造りになっちゃったのよ。ところがギッチョンチョン、日中戦争が激しくなって軍部の反対で日本万国博覧会は「オジャン」になっちゃった。しかし、それ用の橋は予定通り架けられたというわけなのよ。

橋詰に風あり寒くなりにけり   小野淳子
渡り掛く勝鬨橋の師走かな  山尾かづひろ