2015年11月1日日曜日

尾鷲歳時記(249)

物事の見方
内山思考

野菊にも何となくある日曜日   思考

買わなくても寄ってくる蜜柑








どちらかというと面倒くさがりの方である。でも割とこまめなところもあって、例えば新聞や本を読んでいて、判らない文字が出てくると必ず辞書を引く。気になって次に進めないのである。快調に走っている車の前にいきなり障害物が現れた気分になるのだ。

最近はケータイに辞書機能が備わっていて、読めなくても指で画面にその文字を書けば「この字かい?」とでも言うように教えてくれる。でも僕はへそ曲がりでもあるから、なるべく電子機器より印刷物を利用しようと、重い広辞苑をボトン(擬音)と割り、継ぎ接ぎだらけの蘊蓄辞典を拡げるのである。読みや意味がわかったら、それをメモ紙に書いてルビを振りしばし眺めた後、机上の小函の引き出しに仕舞って置く。そして再び黙読のドライブを続けるのである。

僕の相棒たち
書き取り作業は、なるほどと肯かされるセンテンスに遭遇した際にも行われる。昨日は宮本常一の「女の民俗誌」の中の次の一文に膝を打った。「新聞も雑誌もテレビもラジオもすべて事件を追うている。事件だけが話題になる。そしてそこにあらわれたものが世相だと思っているが、実は新聞記事やテレビのニュースにならないところに本当の生活があり、文化があるのではないだろうか。

その平凡だが英知にみちた生活のたて方がもっと掘りおこされてよいように思う。当節はすべてに演出が多く、芝居がかっていすぎる」 これが書かれたのは昭和五十六年だが、三十数年後の現代にも全く同じことが言える。われわれはあまりにも多くの情報に翻弄されているのだ。などとつらつら考えつつ、これも白紙に書き写して引き出しに収めたのである。


蜜柑十句

 一盛りの小粒みかんや色弾む
みかん剥く人北極派南極派
みかん手にしばし朝食後の会話
わが生の出船入船蜜柑山
このみかん宇宙に置けばどうなるか
役目終う皮に一瞥みかん食う
遠目して気分は紀文蜜柑山
文学は不滅龍之介と蜜柑
みかん与えん渇くとき銃いらぬ
正座にも見えて置かるる蜜柑かな