2011年10月9日日曜日

俳枕 江戸から東京へ(40)

深川界隈/芭蕉庵史跡展望庭園
文:山尾かづひろ 

芭蕉庵史跡展望庭園









都区次(とくじ):芭蕉庵跡の芭蕉稲荷ですが、ここには松尾芭蕉が延宝8年(1680)から元禄7年(1694)まで住んでいたと伝えられています。隅田川を一望する高みには芭蕉庵史跡展望庭園が出来ていて芭蕉座像が置いてあります。
江戸璃(えどり):この芭蕉庵は門人で魚問屋の杉山杉風(すぎやまさんぷう)の別荘を草庵として貰い受けたものだったのよね。庭前には芭蕉が植えられてあって、生簀の跡の池もあって「芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな」「古池や蛙とびこむ水の音」などの句が詠まれたのよね。
都区次:芭蕉の死後も芭蕉庵は残っていたのですか?
江戸璃:杉風らによって保護されていたのだけれど、元禄10年に武家屋敷に取り込まれて、江戸切絵図にある通り、屋敷内に旧跡として保存されてはいたのよ。ところがショック、幕末から明治にかけて消失して、さらに民有地化して区画も変わり場所も分らなくなっちゃったそうなのよ。そもそもこの地点が芭蕉庵跡とされたのは、大正6年、深川一帯が台風による高潮に襲われて、ここで芭蕉が愛好したという石の蛙が発見されたことによるのよね。この蛙が物を言ったのか、大正10年、当時の東京府によって「芭蕉庵旧地」と定められたのよ。その後、関東大震災や戦災などの紆余曲折を経て、昭和56年に芭蕉記念館が開設されて、以来、この蛙は「芭蕉遺愛の石の蛙」として、館内の硝子ケースに納まっているのよ。その芭蕉記念館はこの芭蕉稲荷から北へ200メートルほど歩いた左側にあるわよ。
都区次:芭蕉は「桃青」と号していましたが、「芭蕉」という号を使いだしたのは深川に来てからですか?
江戸璃: そのとおり、天和元年(1681)春に門人の李下から芭蕉の株をもらい庭に植えたら、夏秋に見事な葉が茂り、近所の人達から「芭蕉の庵」と呼ばれるようになってね、芭蕉もそれが気に入って「芭蕉」を第二の号として使うようになったのよ。

江戸名所図会 芭蕉庵


















よなぐもり翁座像の前うしろ  長屋璃子(ながやるりこ)
深川の絵図に時雨の容赦なく  山尾かづひろ