2012年3月25日日曜日

俳枕 江戸から東京へ(64)

古川流域/光林寺・有栖川宮記念公園 
文:山尾かづひろ 

有栖川宮記念公園













都区次(とくじ): それでは渋谷川をさらに下って行きましょう。
江戸璃(えどり): 渋谷川は港区の天現寺橋を越えると古川と名前を変えて東京湾へ注いでいるのよ。
都区次: この天現寺橋の北側の南麻布には大使館が集中していますが、どういう訳ですか?
江戸璃:幕末から明治にかけて、江戸城の南西は、多数の大名屋敷の跡地になっていたのよ。この土地を有効利用するため、外国公館や新政府高官の邸宅、新興財閥の邸宅に転用したのよ。明治政府は、狭い範囲に外国公館が集まっている方が警備しやすいという理由で、この地域に外国公館を集める方針をとったと言われているわね。
都区次: 南麻布に大使館のほとんどが台地上か台地斜面に建っていますが、元の大名屋敷も台地上か台地斜面にあったのですか?
江戸璃: そうとは限らないのよ。この辺は台地とはいっても武蔵野台地の東端で、台地が低地に移る縁辺なので、起伏が激しくて坂が多いのよ。だから大名屋敷には坂の下に建っている例も珍しくはなかったのよ。これは当時の日本人が水の便のよい低地を好むのに対して、欧米人は日当たりがよくて、周囲を見下ろす台地を好んだので、公館を建てるのに台地を選んだと言われているわね。
都区次: それでは外国公館に関連する場所を歩いてみましょう。地下鉄日比谷線の広尾駅から歩いてください。
江戸璃:アメリカ公使館の通訳を引き受けていたヒュースケンの墓がある光林寺へ行くわよ。ヒュースケンは米国公使ハリスの片腕として活躍してね、各国語に通じて、駐日各国外交団と幕府との間をとりもった貴重な存在だったけれど、万延元年(1861)12月5日夜、中の橋近辺で攘夷派の浪士に襲われ、27歳の若さであえなく落命しちゃったのよ。墓は笠を載せた日本式だけど、碑面には英文と十字架が彫られているわ。拝んでいきましょう。
都区次:渋谷から歩いてきて疲れましたね。どこかで休みましょう。
江戸璃:北側に有栖川宮記念公園(ありすがわのみやきねんこうえん)があるから、そこのベンチで休みましょう。この公園は、江戸時代に播州赤穂の浅野家の下屋敷だったけれど、明暦2年(1656)に赤坂にあった盛岡藩南部家と場所を交換して南部家の下屋敷となり、維新後、有栖川宮熾人(たるひと)親王の住まいとして使われ、現在は公園として親王の騎馬像が置かれているわよ。親王は幕末から明治にかけて、朝廷のために大きな功績を残した人物として知られていてね、また婚約していた皇女和宮(こうじょかずのみや)が、公武合体政策のため十四代将軍の徳川家茂(とくがわいえもち)に嫁いでしまった、という悲恋が今に伝わっているわね。

ヒュースケンの墓












公園の来し方知るや木の芽風  長屋璃子(ながやるりこ)
陽炎を大使館員ランニング  山尾かづひろ