2013年3月10日日曜日

俳枕 江戸から東京へ(114)

山手線・日暮里(その12)
根岸(上根岸88番地の家⑤)
文:山尾かづひろ 

鉄道馬車










都区次(とくじ): 子規は明治25年10月まで東京大学に籍を置き、見習いの様な形で新聞『日本』で俳句時事評を書いていました。それ以外には何か仕事をしていましたか?

  啓蟄や俳論の掲載子規得意 熊谷彰子

江戸璃(えどり): 子規を使っていた編集長・古島一雄の言によると、「タネ」が無いときに「獺祭書屋俳話」を俳論として政治面のニ面に載せたのよ。これは仕方なしに載せたものなのね。ところがこれが受けたのよ。馬鹿に受けたのよ。
都区次:その「受けた」というのはどの様にして分ったのですか?
江戸璃:発行部数の変化と読者の反響でしょうね。その頃、子規は得意だったそうよ。
都区次:子規には自分の机とか椅子はあったのですか?それとどんな姿で出社していたのですか?
江戸璃:紺の絣(かすり)で出社していて、もちろん自分の机・椅子もあったそうよ。
都区次:子規は新聞『日本』までの通勤はどうしていたのですか?
江戸璃:当時の中央通りには鉄道馬車があったので、それを利用したこともあったでしょうね。私も日暮里から上野広小路を通って万世橋を渡り、雉町(千代田区神田司町)まで試しに歩いてみたけれど40分ほどで行けちゃうのよ。たいしたことはないわよ。これは歩いたわね。

中央通り(明治30年)










啓蟄や矍鑠(かくしゃく)として憚らず 長屋璃子(ながやるりこ)
啓蟄の万世橋を渡り切り    山尾かづひろ