2013年8月11日日曜日

俳枕 江戸から東京へ(136)

山手線・日暮里(その36)
根岸(上根岸82番地の家(21)「子規庵」)
文:山尾かづひろ 

夏目漱石













都区次(とくじ): 子規は須磨保養院に明治28年7月23日から1ヶ月間療養したということでしたが、その後はどうしたのですか?

漱石の宿に逗留大西日 小熊秀子

江戸璃(えどり): 8月25日に松山に帰ったのよ。ただし、子規の育った家と土地は明治22年に売却されているから、売却後母親の実家の屋敷内に建てた家(現在は「正岡子規母堂令妹住居跡」)に行ってね、8月28日から10月17日まで夏目漱石の下宿に52日間逗留したのよ。
都区次:子規と漱石とはどういう関係でしたか?
江戸璃:明治23年、帝国大学文科大学に入学した同窓生でね、子規が手がけた漢詩や俳句などの文集『七草集』が学友らの間で回覧されたとき、漱石がその批評を巻末に漢文で書いたことから、本格的な友情が始まったのよ。漱石は明治28年4月から松山中学校の英語教師として赴任していてね、松山二番町の上野邸内の二階建の離れを借りていたのよ。間取りは1、2階とも四畳半と六畳でね子規は階下の二間を居室と定め、漱石は二階に移ったのよ。子規はここに起居して俳諧大要」を執筆するとともに、当地の日本派俳句結社「松風会」の会員30名を、運座を開くなどして、日夜指導したのよ。漱石もこの下宿を「愚陀仏庵」と称すとともに、自らを「愚陀仏」と号して、この運座にも加わったのよ。
都区次: ところで今日は日暮里からどこへ行きますか?
江戸璃: 立秋を過ぎたから子規ゆかりの向島百花園へ行ってみない?

愚陀仏庵










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萩の花ときに揺れない選択肢 山尾かづひろ