2015年4月5日日曜日

尾鷲歳時記(219)

潮溜まりの話 
内山思考

磯遊び見えて野遊び腰おろし  思考

磯遊びは楽しい
本部で









小学校一、二年の頃だから半世紀も昔の話だ。僕たち家族は、当時和歌山の熊野川上流に住んでいた。前も後ろも山ばかりの小さな町である。ある春の夕べ、一人の女の子(僕にはずいぶんお姉さんに見えた)が「これ先生に」と何か提げてやって来た。地元で理科教師をしている父の教え子の彼女は、その日遠足だったらしく、はるばるバスに乗って海岸線で磯遊びをして来たのだという。

「貝を採って来たから食べて下さい」
「まあまあ」

留守の父に代わって母が丁寧に礼を言って受け取った重い袋からは強い潮の臭いがした。と今思うのはきっと、あとからの記憶のでっち上げだろう。結局中身は全てヤドカリで、裏山の肥やしになってしまったのだが、その夜両親が「山の子やからヤドカリを知らなんだんやろな」と話し合っていたのと、翌日父がその女生徒に礼を言っただけで貝の話はしなかったと母に告げたのは覚えている。

勝手な想像だが、山育ちの娘が多分生まれて初めて磯遊びに出掛けたのだ。朝早くバスに乗って舗装もしてない山路を長時間揺られ、思い切り広がった視野の向こうに水平線を見たときはどれほど嬉しかったことか。家の手伝いも宿題もしなくていい、その日の時間は遊ぶ為だけにあった。潮風に吹かれ緩い波に追われながら声を上げて潮溜まりに屈む少女たちの姿が見えるようである。

タカシ作
貝殻の壁掛け
浜育ちでも楽しいのだから彼女の歓喜は推して知るべし、しかも貝は少々逃げ回るもののいくらでも採れる。その収穫をあの先生にも分けてあげればどんなに喜んでくれるだろう、と父の顔を思い浮かべてくれたのなら、それがヤドカリだろうが何だろうが、教師冥利に尽きるというもの、あれは食べられない貝なんだよと父は口が裂けても言わなかったに違いない。彼女の優しさは美しい逸話となって僕のこころに残っている。ところで、素潜り名人の知人によると、磯の沖にはとんでもなくデカいヤドカリが居て、エビの如くに美味いそうである。