2015年5月10日日曜日

俳枕 江戸から東京へ(227)

田原町(その2)
文:山尾かづひろ 


聖徳寺











江戸璃(えどり):先週の6日が立夏だったけれど、夏らしくなったわね。

上野大仏に紅唇木下闇       飯田孝三
単帯男結びに老舗守る       戸田喜久子
恋文の封を剪るがごと新茶嗅ぐ   森銅昭夫

都区次(とくじ):20年ほど前に江戸璃さんが大矢白星師に案内してもらった田原町のコースを私と歩いてくれるという事で、前回は田原町の本法寺でしたが今回はどこへ案内してくれますか?

江戸璃:菊屋橋の交差点を越えて聖徳寺へ行くわよ。

橋の名を残して道の夏暖簾  畑中あや子

江戸璃:新堀通りと浅草通りとの角が菊屋橋交差点なのだけれど、新堀通りの名の通り、昭和のはじめまでは新堀川が日暮里方面から流れていて菊屋橋もチャンとあったのよ。ここから通りの名はかっぱ橋道具街通りとなるけれど、この先に合羽橋もチャンとあったのよ。余談だけど銀座の数寄屋橋、三原橋などは戦後に撤去されたので、戦前から東京にお住まいだった方は橋があったのを知っているわよ。今日行く聖徳寺は浄土宗の寺で明暦3年(1657)の大火の後当地へ移転してきたのよ。当寺は玉川上水を開削した玉川兄弟(玉川庄右衛門および清右衛門)の墓所があるのよ。徳川家康が天正18年(1590)関東へ移封されたとき江戸城の近くまで海になっていて、土地不足を埋立で解消していったわけよ。そんな埋立地に井戸なんか掘ったって飲料水が出るわけがなくて海水が出ちゃったのね。そんなことで幕府は大河の多摩川から江戸まで飲料水を引くことを考えて土地の農民の玉川兄弟に開削をやらせたのよ。ところがギッチョン、これが大変な難工事になっちゃってね。玉川兄弟も大苦労の末に承応2年(1653)にやっと完成させたのよ。これにより兄弟は「玉川」の姓を名乗る事が許され、上水の管理もまかされたのよ。この上水は江戸の下町へは木製の水道管と地中枡で供給されたのよ。時代劇の長屋裏で井戸を使っている場面があるけれど、あれは地中枡の上に設けられた取水口なのよ。

都区次:原水を取った多摩川は今、どんな景色ですかねえ。

青葦の寄らば切るぞの強面  柳沢初子

江戸璃:青葦が掲句のように茂っているんじゃない。

    玉川兄弟の墓











眼裏に玉川上水首夏の墓   長屋璃子
いよよ夏水の恩人眠る墓   山尾かづひろ