野村万作の狐
土屋秀夫
裸の能舞台に老狐が一匹。屋根の方に背を反らせて「くゎーい」と一声。すると能舞台はたちまち荒野となり、つり屋根は消滅。中天に煌々として月がでる。名優の力は月の荒野に見るものを誘い出す。老狐の眷属は次々とわなにかかって猟師に殺された。・・・だが、わなの餌を食いたくてたまらない。恨みと欲にとらわれた獣の悲しみを「くゎーい」と叫ぶ。
近代の俳優はめったに獣を演じることはない。その力技を生み出すのは伝統の力である。万作さんは自ら新しい型、「月に吠える」を生み出し、その形に肉体と精神を押し込んで行った。板の上から体を伸ばすようにして、中天の月に届けとばかり「くゎーい」と一声、白い狐面をつけ、重い衣装を着けて声を振り絞る。獣になりきった人なのか、人が獣なのか・・・客席は静寂に包まれる。月に照らされた薄の原を風が吹き抜けていく。
一般的な演劇では人間が人間以外の役を演じることは少ないが、古典、能・狂言・歌舞伎なら鬼、獣、亡霊などは得意科目だ。狂言では蚊の精などというのもあるぐらいである。こうした人間以外のものを演じきるには近代の俳優術ではこなしきれない。
リアリティーを金科玉条に自然な身のこなしを最も強く求めたのはアメリカ映画だろう。銀幕で見る映画俳優の演技というものが世界を席巻してきた。伝統の型にはまった演技は古臭いものとして敬遠されがちである。しかし人間以外の精霊を演じたりする古典劇では、独特の発声法や腰を落とし、すり足といった肉体表現が必須である。
舞踊家の田中泯が映画『たそがれ清兵衛』などに出演し俳優を超えた存在感で見るものの度肝を抜いているが、これなども近代の俳優術とは全く背景が違うところに成り立っている表現だ。古典の身体表現の根底には踊りの要素があると考えるのは私ひとりだろうか。
舞踊は(自然な)リアルな動き、いわばほって置けば緩んでいく身体しか持っていない我々から無駄な動きをそぎとって、残った抽象的な動きである。抽象的な肉体を持つ者が始めて狐を演じることが出来るのである。
1993年秘曲『釣狐』の最終公演を終えた万作さんは狂言の王道である太郎冠者をこれからは演じていくと話していた。しかしその後も狐に取り付かれるようにして「釣狐」を何回か舞台に乗せている。