2011年5月22日日曜日

季語の背景(12・幽霊)-超弩級季語探究

小林 夏冬

幽霊
一口に怪異といっても範囲が広い。怪しいこと、不思議なこと、変化など、科学の知識では説明できないものを怪異というそうだが、そのなかで幽霊は厳密にいえば怪異ではなく、別のジャンルに属するものかも知れない。だが、常ならざることや、人間の理解が及ばないものを怪異というならば、幽霊も当然、それに含まれるだろう。この幽霊は現代俳句協会編『現代俳句歳時記』にも、夏の季語として採録されたが、幽霊を夏の季語として収めた歳時記は今までにもある。しかし、幽霊を採録している歳時記が少ないのは、日本の幽霊につきまとう陰惨なイメージが嫌われ、すぐれた例句が少なかったことがいちばんの理由ではないかと思われる。

幽霊について書く前に、私が季語に抱いている一般論をいうならば、季語の扱いに前々から矛盾を感じていることがある。端的にいって季語とは季節をあらわす言葉だと思っているが、「それは歳時記に載っていないから季語ではない」「だからこの句は、季感はあっても無季である」という論がまま大手を振って罷り通る現実についてである。もちろん、季語は造語ではないから、いくら季節を表わす言葉であっても各人が恣意的、かつ無制限に作ってよいというものでないのはいうまでもない。季語とはあくまで本意であり、本意とは軽々しく動かしてはならないもの、安易に手をつけてはならないものであるという基本線に異論はない。しかし、誰が見ても明白に季節を表わし、その言葉が一句の中で季語として働いており、何の抵抗もなく納得できる場合でも、歳時記という後ろ盾がない限り季語とは認めず、歳時記に載ってない以上、季感はあるけれども無季俳句だ、という人が存在することも確かな事実で、そういうところは何とかの威を借るなんとかさんと同じで、権威主義の匂いがぷんぷんしていやなものだ。


それに対して有名俳人が新しく季節を表す言葉で名句を作り、それが歳時記に例句として採用され、多くの俳人の共感を呼んだ場合は季語として認めるというのも、それはそれで結構なことだから別に異を唱えることもないが、無名の俳人の作ではどんなによいと思っても、最初からそんなチャンスに恵まれないから、依怙贔屓という感じはどうしても拭い難い。現代の俳句は季語の本意だけでは律しきれない部分があり、地球規模に拡大された俳句の、季語のあり方にも問題があるのが現状だから、本意を踏まえた上で革新の立場、伝統を守る立場の両方に、もっと徹底した論議がなされてよいのではないかと思うときがある。与えられた季語の中で俳句を作るのがルールだというのも分かるが、それだけではない何かが欲しい、という切実な思いがあることも事実で、しかし、ではそのための議論をする段になると、自分は痛い目に会いたくないという、そんな保身思想があることは自分自身、忸怩たる思いを抱きつつ認めざるを得ない。人間とは勝手なもので、自分だけは火の粉を被りたくないし、袋叩きにも合いたくないものだ。

のっけから横道に逸れた。怪異談のなかでも幽霊がこの項の目的である。一口に幽霊といっても四谷怪談や牡丹燈籠、番町皿屋敷を始め、それこそ枚挙に暇ない。それら個々の話を取り上げてはきりがないし、敢えてそんなことをしてもあまり意味がないから、ここではどうしても幽霊の一般論的な話にならざるを得ない。そこで幽霊は世界各国に存在するが、いや、存在すると断言しては語弊があろう。文学や映画、演劇の世界では存在するが、現実にいるわけではない。そこを深く詮索するとややこしくなるから、一応は存在しているとしておく。事実、ある意味では存在しているからだ。

その幽霊に足がないのは日本だけで、あとはどの国の幽霊にも足がある。なんで日本の幽霊だけ足がないのかということになるが、日本の幽霊もかつては立派に足があり、足がなくなったのは丸山応挙以来ということになっている。ところが牡丹燈籠に登場するお露さんは、カラーン、コローンと下駄の音を響かせてくる。足がなければ下駄の音などしないわけで、おかしいじゃないかということになるが、この話はもともと中国のもので、そこではもちろん足がある。それを幽霊に足がなくなった時代の日本に置き換えたものだから、足がないのに下駄の音がするという矛盾した幽霊話になる。もっとも、そういうことをいい始めたら「緑の黒髪」という理屈に合わない言葉も、かつては美女の形容詞として立派に通用していたから、それも仕方がないというか、まあ、どちらにしても牡丹燈籠は中国の話を翻案したものだから、日本の幽霊にも足がある、ないという次元では傍証にならない。

日本の文献では青蛙房蔵版、三田村鳶魚『三田村鳶魚・江戸ばなし』があり、そのなかの「涼しい話」には、「幽霊の元祖といはれる尾上松緑以来、怪談が芝居のものになり、夏狂言の呼物にもなりました。彼より前の幽霊は足があつたのを、彼は足なしに仕上げましたが、これが画期的な大成功だつたのです。この時から幽霊亡魂が怪談を独占しました」とある。日本の幽霊はみな恨めしやといって出てくるが、日本以外の幽霊は、必ずしも全部が恨みを抱いているとは限らない。とくに外国の幽霊は恨む相手でなくても、単なるいたずらや、「あの人に会いたい」程度で出てくるものが多いのに対して、日本の幽霊は恨む相手があって出てくるのだから、恨まれるという確率の問題からゆけば、人情が生きている市井より、どうしても権力を持つものの方が恨まれやすい。そこで三田村鳶魚にいわせれば、「二百六十有余を数える大名の屋敷に怪談のない家はほとんどなく、大概は幽霊を持合せておりました」ということになる。

ところが大名などは外聞を憚るから、そういうことが世間に漏れないようにする。なかには外に漏れてしまってお芝居の題材になることもあるが、そうはいっても当時の戯作者や役者は、士農工商の枠からはみ出したもの、つまり負の世界の住人だから、とくに権力者に対する恐れがある。そこで「人間に限られた幽霊亡魂も、概して大名高家を嫌つて、民間もしくは町家に近いところのものに片寄りました」ということになるのも自然の流れだろう。権力者の弱みを衝くと後が恐ろしいというわけで、その多くは舞台設定を大幅に変えてしまうことになる。

『三田村鳶魚・江戸ばなし』によると、池田照政の後妻だった督姫は嫉妬深く、蛇責めで大勢の侍女を殺した。あまりの残虐さに僧を呼んで供養したくらいでは祟りが納まらず、とうとう池上本門寺で大々的に法要をしたところ、その席上、体中のあちこちに蛇の噛み傷のある怨霊が髪を振り乱して現れ、息遣いも絶え絶えにいうには、「いづれも我がこの姿をご覧ぜよ、かくあれば如何ほど追善供養をなされ、我亡き跡を弔ひ給ふとても、この苦患いつの世にか忘られるべき」と恨み言をいった。あまりの恐ろしさに「満座の僧俗悉く面を伏せ首を垂れて、人心地もありませんでした」という騒ぎになって、世間一般にまで知れてしまうことになり、それが役所の正式な記録にも残ってしまった。「かうした怪談がザラにありますので、珍しくもないのですが、江戸時代には遠慮して、芝居にも小説にも拵えなかつたのです」と鳶魚はいっている。さらに「江戸末の幽霊好み」という項目では、副題を「尾上松緑親子の工夫」として、次のように述べている。少し長くなってしまうが、その部分を引用すると、

「夏になりますと怪談が出て参ります。これは自然夜が更けるまで誰もが起きて居ります為に、幽霊話などがいゝ取合せになるから、持出されるといふやうなわけでもなささうに思はれます。幽霊の元祖といはれますのは、後に尾上松緑となりました尾上松助、及びその養子でありまして三代目菊五郎になつた、この親子が芝居の幽霊話を得意に致しまして以来、怪談といふものが、江戸の民間に頻りに面白がられるやうになつたのですが、松緑が幽霊の元祖といはれますわけは、それまで足のあつた幽霊を、松緑の工夫で足のないやうに致しました。これは人魂からの思ひつきで、人魂が通つたあとにスーツと長く足を引きます。あれから思ひつきまして、幽霊の足をスーツと細くするやうに工夫したのが松緑でありました。幽霊の形式はこの松緑から変つたのでありますが、怪談といふものの意味もまたこの松緑から変つたので、江戸末の幽霊好みといふ一種の誂へは、この松緑によつて起つたといつて差支へありますまい。松緑より前は能で見ますやうな、誰も知つてゐるあの『舟弁慶』の幽霊、いかめしいなりで『是は桓武天皇九代の後胤、平知盛の幽霊なり』と自ら名乗つて出て参ります。無論両足がちやんとあつて、どんどん足拍子か何かで出て来る。今日でも能の幽霊は知盛のみならず皆足がありまして、生きてゐる人間と同じ形で出て来るのです。能ばかりではありません。古浄瑠璃の方でも皆足がついてゐる。これは今に残つて居ります正本や狂言本などにも見へます。たヾその中の挿画を見ますと、全身あるものばかりではない、半身に画いてあるものもありますが、実際舞台の上に於いては両足がちやんとある。『浅間ケ嶽』の舞台の挿画などを見ますと、奥州が起請を焼いた、その煙の中から現れて出ます。丁度下半身が煙で、その中から出たやうに見へますので足が画いてありません。けれどもこれは『出』だけの話で、出てしまへば舞台を歩くのですから、無論足はある。松緑は足なしにしたと申しましても、これは文化からの話であります。さうして松緑の工夫に起つて、その子の菊五郎と二代がかりで、幽霊の形式、幽霊の趣向といふものが出来上つたわけなのです」

とある。

この引用文では単に文化からとしか書いていないが、文化年間は一八〇四年から一八一七年までだから、丸山応挙の生存年とされる享保十八年から寛政七年(一七三三年ー一七九五年)のほうが早いことになる。松緑が幽霊を足なしにしたのは文化年間の最初の年、文化元年と仮定しても、応挙が幽霊画を描いたのは天明七年(一七八四)だから、応挙の幽霊画ほうが少なくとも二十年まえということになる。その応挙が描いた幽霊画は後述する「返魂香之図」がもっともポピュラーだが、松緑のころにはもう、応挙の幽霊画は江戸庶民の間にも知られていただろうから、この画は松緑も知っていたと考えたほうが自然な解釈だろう。江戸時代も最終章にさしかかるころ、ペリー来航四十九年前のことである。だから三田村鳶魚の文章のうち、「それまで足のあつた幽霊を、松緑の工夫で足のないやうに致しました」という段は、「芝居の世界に限っていうならば」という前提が必要で、それがないと一般論として、足のない幽霊の創始者は尾上松緑ということになってしまう。だから演劇と絵画の世界を立て分け、そのうえでものをいわないと誤解を招くことになってしまう。

それはとにかく、幽霊は足のないほうが確かに恐ろしい。逞しい足に毛脛を剥き出しにした幽霊では、恐ろしさも半減しようというものだ。演劇の世界で怪談狂言を夏芝居に取り上げたのは早くからのことで、盆芝居には幽霊物を出す決まりのようなものがあったという。そこから幽霊は夏の季語となったわけだが、ひょんなことから日本で幽霊の足がなくなったのは、そんなに古いことではないのが分かるし、日本の幽霊だけ足がないのもこれで分かる。問題は尾上松緑と丸山応挙のどちらが先かということになるが、年代順に見れば寛政七年(一七九五)に、六十三歳で没した応挙のほうが早いのは前記した通りである。しかし、足がなくなったのは丸山応挙以来ということははっきりしたが、応挙の幽霊はあくまで「足がなくなった」という、足の部分が陽炎のように描かれているという一点に絞られる。そういう点からいえば、鬼火に始まるおたまじゃくしの尻尾のような、「足をスーツと細くする」という幽霊の下半身は、応挙が創始したものではないところに問題があり、そこに「幽霊の足がなくなったのは松緑以来」という見方、考え方が成立する余地があるといえよう。

だいたい、写実派の応挙がなぜ幽霊画を画いたのかという疑問もあるが、その疑問を解くには応挙の筆になる「返魂香之図」から始めるのが順当だろう。その前提となる返魂香とは、その香を焚くことによって死者を蘇らせることができるというもので、『五雑組』「物部二」に「永楽初天妃宮有鸛卵」【永楽年間の始め、天妃宮で鸛の卵が見つかった】とある。そこで「為寺僧所烹将熟矣老僧見其哀鳴命取還之」【寺僧がその卵を茹でようと思い、いままさに煮えようとしたとき、鸛の親が悲しそうに鳴くのを見た住職が、その卵を巣に戻させた】ところ、「数時雛出僧驚異探其巣得香木尺許」【しばらくして巣から雛が出てきたので、坊さんは驚いて巣の中を探し、そこで一尺ばかりの香木を見つけた】とある。その香木は見たところ「五采如錦持以供仏」【五色の錦のようだったので仏前に供え】ておいたところ、「後有倭奴見以五百金買之問何物曰此仙香也焚之死人可生即返魂香也」【のちに日本の商人が見て五百両で買った。そこで僧がそれは何かと聞くと日本の商人は、これは仙香といってこれを焚けば死んだ人を生き返らせることができるという名香で、これこそ世にいう返魂香なのだ】といったという話がある。

ここに出てくる永楽という年号は中国で二度あり、最初は前涼のころ、西暦三四六年から三五三年までで、日本では卑弥呼の時代になる。次の永楽年間は明国三代目、成祖治下の二十二年間がそれに当たる。西暦でいえば一四〇三年から一四二四年で、日本では南北朝の内戦が終結し、後小松天皇が践祚して、南北朝の合一が成った十一年後のことだから、金閣寺が建立され、足利義満が明と通商したころで、どちらの永楽年間か調べてみないと分からないにしても、日本の商人が登場することから、明の時代だろうと思われる。卑弥呼の時代では、中国に日本の商人が登場するわけがないからだ。細かい時代考証はしばらく措くとして、中国によくある話のパターンとしては、仙香を焚いたところ十里四方の死者が生き返り、病むものは立ち所に元気を回復し、歩き出したというものがある。

この返魂香を『和漢三才図会』で見ると、「漢書及博物志所謂霊香是也」【『漢書』や『博物志』でいう霊香とはこれだ】として、「返魂樹西域有之状如楓柏花葉香聞百里」【この返魂樹は西域に生える木で、楓や柏と似ており、花と葉の芳しい薫りは百里の先まで届く】という。そして「采其根水煮取汁錬之如漆乃香成也凡有疫死者焼豆許薫之再活」【その根を煮て汁をとり、よく練ると漆のようになって、得もいわれぬよい香りがする。病気などで死んだものに豆粒ほど取り、焚くと、すぐに生き返らせることが出来る】と、その希有な効能を説く。さらに「漢武帝時月氏国貢此葉三枚」【漢の武帝のとき、月氏国からの貢ぎ物としてこれを三粒贈られた】ことがあり、ちょうど「大如燕卵黒如桑椹値」【大きさは燕の卵くらいで黒く、桑の実のようだった】として長安での出来事を述べている。

「長安大疫西使請焼一枚辟之宮中病者聞之即起香聞百里」【長安で疫病が大流行したとき、月氏国の大使に願って一粒焼いたところ、宮中の者はみな病を免れることが出来、病の床に伏せていたものは、この香を吸って忽ち起き上がり、その香は百里の先まで届いた】という。そしてその香りは「数日不歇疫死未三日者薫之皆活乃返生神薬也」【数日の間、止むことがなかった。病で死んで三日経たないものは、この香を嗅いで生き返ったという神薬である】と続き、さらに「此説雖渉詭怪然理外之事容或有之」【この話は出鱈目のようだが、これはもう人間の智慧を超えたもので、こういうことも現実にあるのだ】と結んでいる。『和漢三才図会』はそれに続けて関連項目の「兜木香」を設け、やはり漢の武帝の御代に西王母が、この兜木香を焚いて死者を蘇らせる話を載せている。「死者皆起」【死者がみな生き返った】というわけだが、ほかにも返魂香を焚いて死者が蘇ったという話はたくさんあり、戦乱に伴う死者、餓死者、病死者などが蘇ったという話も、虐げられ続ける民の未来願望の現れだろう。

それが日本に伝わり、『塵袋』にも返魂香の話が書かれている。この『塵袋』は鎌倉時代に著されたものといわれ、著者は僧侶ということ以外は分からないし、原本も失われてしまったが、それを高野山の印融法印が書写したものが残り、今に伝わっている。

「不死草ノ一名ヲ招魂ト云フハ反魂モ同ジカ」として、「不死薬ト反魂香トハ別ノ物也。但シ一物ト覚ユル事モアリ、山海経図ニ障州巽ノ海、祖州ノ上ニ多ク出ス。反魂香ヲ不死草ト云ヘリ。反魂モ不死モアリトハキコユレドモ、不見云々。不死草ノ一名ハ招魂ト云フ、釈ヲ見ル時ハ心カヨヒテ覚ユルナリ。東方朔ガ十州記ニハ魂魄樹ト云ヘリ。又、反魂香ト云ヒ、却死香トモ云ヘリ。コレハ草ニアラズ木也。又、西湖ノ西海ニ聚窟州有リ、反魂香ヲ多ク産ス。昔シ漢ノ武帝ノ時、彼ノ国ヨリ之ヲ奉ルト云ヘリ。李夫人ノ魂ヲバ此ノ香ヲタキテカヘシケルニヤ、木ハ桂ニ相似タリ。葉、花ハ、ハナハダカウバシクシテ、五百里ニカホル。此ノ木ヲタタケバ、コヱ牛ノホユルガ如シ」といっている。
 その香木は桂に似た木で、幹をたたくと牛が鳴くような声を出すというが、『塵袋』の記事はさらに続き、「其ノ根ヲ切ツテ玉釜ノ中ニ煮テ、後ニ丸ヲ作ル。是ヲタキテ薫ズルニ、死人蘇ル。漢ノ武帝ノ時、是ヲ西国ヨリエタマヘリ、神霊丸ト名ヅク。三丸在リ、形ハツバクラメノ卵ノ如クシテ、大キサ棗ノ如シ。長安宮ニ疾疫ニ死スルモノ多シ、此ノ香ヲタクニ、長安五百里ノウチニアル病人、是ヲカギテ、コトゴトク病ヒイヘヌ。其ノニホヒ、九ヶ月ヲフルマデウセズト云ヘリ」としているが、このへんの記事は『和漢三才図会』その他の文献と重複する。そして「帝王世記ニ漢ノ武帝ノ時、大疫病ニ死スル者過半也。長安ミナ臭シ。西王母、持薬ノ三七丸ヲ王ニ与フ。大キサ梅子ノ如シ、此ヲ燃クベシト。王、一丸ヲ割ツテ燃クニ、其ノ香三十余里ニ及ビ、香ノ及ブ所ノ人、皆悉ク起立スル也。兼名菀ニハ驚精香ト云ヘリ。又一名ハ霊、一名ハ返生、一名ハ人鳥精ト云ヘリ」とあって、話としては面白いが、いくら名香だからといって、それを焚いて死人が蘇る筈はないから、不老不死の薬の延長線上のものでしかない。

応挙の「返魂香之図」はこれらの説話を踏んでいて、『塵袋』の記事もその流れの中のものである。それが直ちに中国笑話が換骨奪胎され、落語に出てくるのと軌を一にするものではないが、話の方程式としては同じである。身分の高い武士が、若くして亡くなった娘の魂を呼び戻そうと思い、応挙に依頼して娘を描いてもらい、蘇生の願望を籠めてその画を菩提寺に納めた。それが「返魂香之図」だといわれているが、私はそれを写真で見たに過ぎない。そこに描かれた美女の上半身は写実派そのもの、まさに写生された美女の図で、ただ、下半身は陽炎のように描かれ、おたまじゃくしの尻尾のように、「スーツと細く」したものではない。中国の史実、人物、風景に題材をとって描くことの多かった応挙は、それまでに描かれた中国の幽霊画も見ていた筈で、画のタイトルを「返魂香之図」としたのは、応挙がその話を知っていたからに他ならないし、それは応挙ばかりではなく、漢籍はもちろん中国の絵画も、当時の知識人に広く親しまれていたことを物語っている。

幽霊に足があることは応挙にとっても常識で、その常識を根底から覆したものはなんだったかを考えるならば、写実とはもともと見るだけで分かるもの、説明を要しないものである。従って写実派が写実に徹して幽霊を描き、当然ながら幽霊の足も描いた結果として、「誰々の幽霊の図」という注釈がなければ幽霊画になり得ないという矛盾、俳句でいえば前書つきでは、応挙にとって耐えられない思いがあったろう。それが「是は桓武天皇九代の後胤、平知盛の幽霊なり」という名乗りがなくても、誰が、いつ、どこで見ても、遠い時代を隔て、国土を異にしても幽霊だと分かる幽霊画を描く、それは南画の系譜に連なる写実派、応挙のプライドでもあったろうと思うのは考え過ぎだろうか。「狩野門中復豪傑ヲ出サズ。末流唯家法ヲ祖述シ、余瀝残炙ヲ嘗メテ之ヲ甘シトスルモノゝミ。偶々新機軸ヲ出スモノアレバ破門ノ罰ヲ受クルニ至ル」平凡社『岡倉天心全集』というのが当時の狩野派が陥ったマンネリズムの実態であり、それはなにも狩野派だけの問題ではなかったが、「応挙ニ至リテハ最モ力ヲ写生ニ致シ、造化ヲ以テ其師トシ(中略)写生ノ新法ヲ発揚シ、古来ノ弊習ヲ一洗シタル」(同前)とする、写実派であるがゆえの、応挙にとって前書なしで通用する幽霊画を描くことは見果てぬ願望であったに違いない。彼はその難題を「返魂香之図」で一挙にクリアした。

講談社『日本の名画六』には、「応挙の幽霊画についてはこんな話がいい伝えられている。あるパトロンが応挙に幽霊を描かせようとした。それは応挙のライバル、曽我蕭白の使嗾するところであったという。見たものしか描けない写生画家応挙は、日夜幽霊の姿を求めて苦悩していた。しかし幽霊は一向にその姿を現さない。苦しむ応挙の姿を見るに見かねて妻はひそかに自害し、自ら幽霊となって応挙の前に現れる。応挙はようやく念願を果たすことが出来た。しかし、妻の死を知った応挙は、もはやふたたび幽霊の絵に筆をとろうとはしなかった。つくり話にしても、これはいかにも応挙の幽霊画にふさわしい話であろう」とある。いかにも江戸っ子好みの話で、それが当時の人々の琴線に触れたということだろう。応挙の画集の中で「返魂香之図」は目立つところに掲載していないし、解説でもあまり触れていない。応挙にとって幽霊画を画いたのはあくまでも例外で、この話も『日本の名画六』ではコラム扱いしかされていない。

この「返魂香之図」は下半身が陽炎のように描かれ、形として見えないように描いてあっても、おたまじゃくしの尻尾のような描き方でないのは先に述べた。その陽炎ふうな描き方は単に応挙の幽霊画ばかりではなく、絵画界における幽霊画の手法として踏襲されており、おたまじゃくしの尻尾ふうのものは、ずっと時代が下がってから、イラストや漫画の類に限られる。その幽霊を応挙の陽炎ふうな表現とは別な方法を駆使し、それを実体化することに腐心した尾上松緑は、この「返魂香之図」は当然のことながら知っていた筈である。だが、尾上松緑にも斯界の第一人者たる意地があったろう。自分だけの幽霊を日夜模索した末に、三田村鳶魚がいう鬼火にゆきついた、と考えるのが自然の結論ではあるまいか。

かくして丸山応挙と尾上松緑はそれぞれの幽霊を完成したが、最初に幽霊の足がなくなったとき、ということに論点を絞れば、丸山応挙以来ということになる。それが応挙は写実派でありながら幽霊画家として喧伝された所以だが、足を描かないということはコロンブスの卵のようなもので、現実の幽霊としてではなく絵画の幽霊、あるイメージを形として表現された幽霊は、足を失って始めて幽霊としての主格が完成されたと見るべきだろう。応挙以前の幽霊画は、人間である以上は足も描かなければならないという常識、あるいは桎梏に囚われたため、病みさらばえ、傷だらけ、血だらけの、見るに耐えないような気味悪い顔に描いて鬼気を前面に出し、鬼気に覆われた全体像を描いて、幽霊を表現せざるを得なかったわけで、そのような前提に囚われているうちは、美人画にも匹敵する艶麗な幽霊画など望み得べくもなかったわけである。

今年も幽霊のシーズンが到来して、銀座のデパートに谷中全生庵所蔵の幽霊画展示会があった。もとからそういうものに興味があったので、ある句会の前にちょっと寄ってみた。そのときも足のある幽霊画が一幅だけ展示してあったが、そのほかは女性は概して恐いけれども美しい幽霊、かわいい幽霊で、毎年の夏にテレビで放映される怪談を見慣れたものにとって、幽霊に対する認識を新たにしたものだ。恨みのあるものだけに祟る幽霊は、恨みを受ける覚えのないものにとっては、恐ろしいけれども自分とは無関係のもの、対岸の火事として見ていられるという、そんな安心感がどこかにある。その点、無関係なものにも悪さをする妖怪のほうが、直接的な恐ろしさがある。妖怪は別に譲るとして、中国の怪異談は『山海経』『捜神記』を始めとしてたくさんあり、その流れとしてわが国には『日本霊異記』がある。その『捜神記』その他の類書と、『日本霊異記』の間には中国仏教説話がある。つまり、中国の神話が仏教伝説へ繋がり、それがさらに日本仏教伝説へという流れになるのだが、この『日本霊異記』は諾楽(奈良)薬師寺の僧であった景戒によって書かれたもので、その正式な書名は『日本国現報善悪霊異記』だという。

その名の通り因果応報を説いたもので、中国の仏教説話に倣ったものだといわれているが、その原点に『捜神記』などがあることは疑う余地はない。そこへ仏の教えが加味され、因果応報を説く中国仏教説話となった。『日本霊異記』はさらにその流れを汲むものであり、これは著者が日本の仏僧であったことからも分かるように、それが自然のなりゆきだろう。私も仏教徒の端くれだから、仏が絡まない『捜神記』を、単なる怪異談と規定することにさしたる抵抗感はないが、『日本霊異記』という仏教説話を「楽しいが出鱈目な話」というのは、やはり仏というものに対する畏れがある。

その『日本霊異記』に狐が頻繁に出てくるのも、お話の源流が中国であるだけによく分かる。その狐は「来つ寝」が語源で、猫が「寝子」であることと同一線上のものだといえる。猫の場合は寝てばかりいるから寝子、猫というのは特段の説明を要しないが、「来つ寝」イコール狐というのは、どうしてなのかという疑問が残る。なんで来るのだ、なんで来たら寝るのだ、狐なら寝る前に人を化かすほうが先だろう。狐の語源を聞いたときそんな疑問があったが、『日本霊異記』を読んで初めてその意味が分かった。それは「狐為妻令生子縁」【狐の妻に子が生まれた話】というもので、話の荒筋はある男が野原で美しい娘に会い、互いに一目惚れして結婚した。やがてこどもが生まれたというもので、こういう話の組み立ては中国の民話そのもの、中国から伝来した話の影響がよく出ている。ところがその家の飼い犬も子を産んだ。その子犬が狐である女の本性を見破って盛んに吠え立て、女を恐がらせたので、女はその犬を殺してくれるように主人に頼んだ。しかし、主人はわけも分からないのに、犬を殺すなどということは出来ないでいるうち、親犬が女に噛みつこうとしたので、女はおびえてとうとう狐の正体を現してしまった。

それを見た主人は狐に、「汝与我之中子相生故吾不忘」【おまえはわたしの子を生んだ仲ではないか。だからおまえを忘れはしない】といい、「毎来相寝」【いつでも来い、一緒に寝ようじゃないか】といった。そこで妻である狐は犬が恐いので、いったんはその家を出てしまったが、「而来寝」【それからは夫のところへ来て、一緒に寝るようになった】という。そして「故名為支都禰也」【だからその女の名を支都禰、狐というようになった】のが来つ寝、狐の由来ということになる。そういう事情ならば「来つ寝」もごく自然なことで、夫婦はその子にも支都禰と名をつけたとある。

例の如く話が横道に逸れた。次の『聊斎志異』は中国最後の王朝である清の時代、蒲松齢が長い期間をかけて書き溜めたもので、この本の成立年代は不明だが、この『聊斎志異』を中国三大奇書の一つに数える人が多い。日本でいえば『遠野物語』に類する本で、民話の集大成といった趣のものだが、『遠野物語』の「おしらさま」も、その原案は『捜神記』の「馬の恋」で、それを翻案したものが「おしらさま」として遠野地方の民間伝承の一つとなった。ただ、国のスケールが違うように『遠野物語』と『聊斎志異』ではその量が違う。これは平凡社から増田渉ほかの訳本が出ており、上下二巻に分けた分厚い本になっているが、どんなに完全な訳でも、漢字から受けるイメージには個人差があるから、これを原文と併読すると興味が倍加する。ときには完全な訳であるからこそ、イマジネーションが制約されてしまうという、漢字にはそんな不思議な一面があって、それが原著の面白さを倍増する。

私が読んだのは上海古籍出版の復刻本で、その約八割は怪異談で道士や仙人、神仙などを除くと、登場する動物は圧倒的に狐が多い。あとは蛇、狼、馬、猿、虎、変わったところでは紙魚も人間となって話に出てきて、最後に紙魚の正体を現す仕掛けになっているが、これも国民性の違いから来るものなのか、日本で人気の高い狸は中国ではほとんど出てこない。私の知る限りでは『唐代伝奇・古鏡記』と『捜神記』の四百二十話に登場するくらいで、やはり狐が女になって出てくる場合が圧倒的である。それに反して狸は男になって出てくる場合が多いから、登場頻度の違いは性別によるものが影響しているのかも知れない。

『聊斎志異』に出てくる幽霊にもいろいろあって「恨めしや」と、恨みを晴らすことがすべての日本と違い、中国では少しも恐くない馬鹿幽霊が多い。人間に噛みつかれて逃げ出す幽霊、漁師が溺死者を弔って河へ酒を注いだところ、お礼に網へ魚を追い込んでくれる幽霊、ある男と情を通じた幽霊が、生れ変わってその男の妻となる話、詩をよくする幽霊、死刑にされた男が夜な夜な町に出て祟るので、知事が怒ってお叱りの立て札を立てたところ、それからはぴたりと出なくなった幽霊、無縁仏で成仏できないから、友人に回向してくれるように頼む幽霊、突然、知事の所へ現れ、終日碁を打ったりして知事と碁敵となった幽霊、冥土を巡回する幽霊の主人に随行し、護衛するため、自分の墓へ帰る暇がない幽霊、幽霊となった父親が、息子の嫁を黄泉へ連れてゆこうとする幽鬼に泣きついて、嫁に手料理を作らせて振舞い、勘弁してもらう話、首を吊って幽霊となった女が何年後かにまた首を吊った話、旅で道に迷い、一夜の宿を借りた男が、その縁で娘を嫁にもらったが、実はその女は幽霊だったなど、バラエティに富んだ話がたくさんある。

上巻からその一部を抜粋したが、これを見ても恐ろしい幽霊など一人もいないから、日本の幽霊とは歴然とした違いがある。なかには親しい友人の家に現れ、起居を共にして一緒に飲んだり食べたりしながら、「実はおれは幽霊なんだ」と打ち明けられるまで、その友人は相手が幽霊であることさえ気がつかないでいたりする。なかには人に祟ることもあるし、取憑く場合もあるが、中国ではそういう幽霊は特異なケースである。なかには人間に騙されて見世物小屋に売り飛ばされ、わが身の不運を嘆いて日夜、涙に暮れる幽霊もいたりする。そういう手合いが焼き直されて落語などに登場してくるから、日本の幽霊のように陰湿、陰惨なものは少ない。女の場合は妙齢の美女として現れ、淋しい男のところへ押しかけ女房になったり、または愛人となって甲斐甲斐しく尽したりする。羨ましいようなものだが、そういう場合は前世の宿縁で相手は決まっており、業が満ちてその罪障が消えると、それまでに積んだ福の厚薄によって、さまざまな家へ生れ変わるために消えてゆく。幽霊が実体化して人間と結婚し、こどもも生まれて幸福に暮らすケースや、幽霊同士が結婚する幽婚など、類い稀な美女が身なりも構わず、不平もいわずに働く。

結局のところはお話だから、どこまでも男に都合がよいように書いてあるが、そのように苦しむことで前世の悪業が切れるという思想に基づくわけで、前世に犯した罪業が尽きない限り、どのように足掻いても運が好転することはない。ときには幽霊から人間に戻れる場合もあって、これが中国の幽霊の特異点である。人間と結婚した幽霊が、旦那の苦境を見るに見かねて、誰かがずっと昔に地中に埋め、そのまま忘れられてしまった金のありかを、ご亭主や息子に教えて掘り出させ、苦境を逃れたりする。もちろん、助けられるご亭主は誠実な男に限られるから、それを羨む私はその点で既に失格者だが、そういうところが日本の幽霊との決定的な違いである。それは大陸という地政学的なものが人の精神にまで影響した結果なのだろうか。やはり国土形態の違いによる考え方や発想の違いが、そのような形で表面化するのかも知れない。そのよい例が『捜神記』を始めとする一連の書物で、それが国土形態の違いから来る地政学的なものなのか、それぞれの国の歴史が持つ質の違いから来るものか、そこまでは私には分からない。

中国の幽霊はもちろん足があるから、映画や芝居で人間と区別するために顔を隈取ったり、青く塗った顔に引きつった目をして現れるが、日本の幽霊、お岩さんその他のように血だらけ、傷だらけで出てくるものはない。そのほかにはキョンシーといって、もともとは倒れた死体という意味になるが、難しくいうと僵尸と書いて「きょうし」と読む。これはどちらかというと幽霊というよりゾンビの類で強力無双、性格は凶暴にして人を食らい、空を飛ぶこともできるから、分類としては幽霊というより変化の類で、幽霊とははっきりとした違いがある。その幽霊も中国ではわれわれの常識では考えられないものとなるのは、幽霊の例を挙げた部分で書いた。その中国笑話に登場する幽霊はそんなに多くはないが、それでも中国の笑話を読んでゆくと幽霊が登場するものが結構多い。主な笑話集としては『笑林』『笑海叢珠』『笑苑千金』『笑賛』『笑府』などが代表的なもので、そのなかにはずいぶん江戸小噺や落語のネタ元になっているものがある。

もともと中国笑話の起源は古く紀元前、前漢、後漢から合従連衡に明け暮れた戦国七雄の時代に遡るとされ、『戦国策』『韓非子』『孟子』などにも数多く引用されている。各国の説客が文字通り己の舌先三寸に命を賭け、自国の浮沈を賭けて諸国を遊説したが、理詰めの堅い話ばかりでは逆効果を及ぼす場合がある。合従連衡とは要するに戦乱の世に、そこで生きてゆく各国による騙しあいだから必然的に、硬軟取り合わせた話題で相手国を説得する必要がある。説得の失敗はすなわち死を意味する場合があったし、成功すれば素寒貧の浪人が一躍、宰相の座を射止めることもある。壮士たちにとってはまたとない機会だったろう。そのための話の集大成が後世に補完され、潤色されて中国笑話集となった。

先ほどから度々引用した『捜神記』にも幽霊の話はたくさんある。『聊斎志異』の繰返しのようになってしまうが、『捜神記』の幽霊話をいくつか挙げると、ある書生と客でこの世に幽霊がいる、いないで論争した。議論に負けた客は「おまえはこの世に幽霊などいないというが、現にこのおれは幽霊なのだ」といって友人の目の前で消えた話、もう一つは議論に負けたところまでは同じで、そこから先は「おれはお前さんを連れに冥土から来たのだ」といって書生を凹ませる話、親に先立った罰として冥府の小使いにされ、こき使われてやせ衰えた幽霊が、名士の父親に頼んで楽な仕事に変えてもらう話、省の役所を襲撃した幽霊の一団が反撃に会い、矢に射られて死ぬ話、優雅に琴を弾く幽霊の話、酒を飲んだ幽霊が酔っ払って林の中で寝込んでしまった話、幽霊を騙して売り飛ばした男の話、三日間だけ夫婦になってくれと旅人に頼む女の幽霊の話などがあって、これらはみな幽霊として出てきたものだけである。こういうと、では幽霊として出てこない幽霊があるのかといわれそうだが、実際に出るのではなく、夢に出てくる幽霊が多い。日本流にいえば夢枕に立つの類だが、ここには夢枕に立った幽霊の話は引いていない。この『捜神記』や『聊斎志異』の話からも分かる通り、弱い幽霊、だらしがなくて人間的な幽霊が多く、そういうものが相手を当てこする、絶好の題材として登場してくる。

一方、藤井高尚著『松の落葉』は、「やまともろこしの書に見へ」るという、外国の幽霊と日本の幽霊の豁然とした違いを述べている。そこでは「世の人の幽霊というものハ、人のなき魂のかたちをあらはすことにて、やまともろこしの書に見へ、又今もまさしく見つ。かうかうのさまなりしなど、かたる人もありけり」【幽霊とは死後の魂が形となって現れたもので、日本や外国の文献にもあり、いまも現実に出ていてこうだった、ああだったという人がいる】が、「大かたハうらみもし、したひもし、又ハ何にまれ、ふかく心をのこして死にたる人の、たまのあらハるゝにぞありける」【殆どの幽霊は恨んだり、懐かしがったりするが、いずれもこの世に心を残したまま死んだ人の魂が、幽霊となって現れる】のだという。

しかし、「まれにハさやうならぬもまじり、又いとふかく心ののこるべきことありて死につる人のたまの、さらにあらはれぬもおほかれバ、たれもたれもあやしむことになん」【全部がそうだというわけではなく、この世に深い思いを残したまま死んだ人でも、幽霊になって出ないケースがあるから、人々はそこが不思議だと思う】ことになる。そこで「高尚がおもへるやうをいひてん」藤井高尚が思うには「人死すれバその魂、神のしります世界にいりて、ほとほとにたふとき、いやしき神となりてをれバ、此世にあらハれいづるものにはあらづ。神の、めに見えたまはぬに同じ」【人が死ぬと魂は幽界へゆき、いろいろな神となっている。そのうえでこの世に出たり、出なかったりしているのではなく、神さまになっているのだからこの世に出ても、人間の目には見えないだけの話だ】と説明している。これが、あの人は幽霊になって出てきてもおかしくないのに、出てこないのはなぜだろう、という疑問の答えになっている。出ないのではなく、出ているのだが、人間の目には見えないだけだというわけだ。

そして「しかにハあれども、いにしへよりいといとまれには、神のあらハれたまふことのあるごとく、人のなきたまもゆゑありてハ、神のみはからひにてあらはれいづることにこそ」【ただ、そうはいっても昔から、たまには神さまがこの世に現れることがあるように、ちゃんとした理由がある時は幽霊だって、神さまのお計らいによって出てくるのだ】という。そして「そのゆゑよしハ幽冥のことなれば、此世の人の心にハさらにおしはかりしられぬになん」【出たり出なかったりするそのわけは、冥界のことだから人智を超越したところにあり、人間にあの世のことは分からないのだ】としているから、やや苦し紛れのところがあるように見受けられはしても、理屈としては筋が通っていることになる。藤井高尚は続けて『春秋左氏伝』を引用し、幽霊は滅多に現れるものではないが「されバなきたまのあらはるゝハ、神のみはからいになん」【そのようなわけだから、幽霊が出てくるのはあくまで神さまのみ計らいによるものだ】といい、「ミづからハふかく心のこりても、幽冥のこととりたまふ神にこひてゆるしたまハねば、此世に来てとかくすることハなりがたく、神もたやすくハ然せさせたまはぬことゆゑにこそ。なき魂のあらハれ見ゆるハ、いといとまれなるらめ」つまり、【いくらこの世に果たせぬ恨みを残して死んだからといっても、この世に出るにはそういうことを管轄する神さまの許可が必要だから、許可が下りないのに勝手に出ることは出来ないし、神さまだってそう簡単に許可しない。だからこの世に幽霊が出ることはあまりないのだ】という。

なんだ、前段では神さまになっているから、出ても人間には見えないだけのことだといっていたくせに、と文句の一つもいいたくなるが、幽霊が出るのはその幽霊の気まま勝手や届出制ではなく、許可制になっていて、それを取り仕切る神さまのお許しがなければ、いくら出たくても出られない。神様のほうもそうやすやすと許可しないから、許可が下りない以上、幽霊としてはいくら出たくても、手も足も出ないということになる。まあ、幽霊だから手のほうはともかく、足が出るわけはないが、出ないのではなくて、神さまの許可をもらえないから出られないわけで、聞くも語るも涙の種、これでは恨みを残して死んだ幽霊は、ストレスが溜まる一方だろう。藤井高尚は私見であると断っているが、幽霊は神さまとは管轄が違うじゃないかといいたくなってくる。しかし、高尚がいう幽霊は、『春秋左氏伝』を引用していることからも分かるように、高い格式と識見を持つ人の魂の話だから、これはもう神霊といった趣のもので、落語に出てくる熊さん、八っつあんの幽霊話とは同列に論じられない。そんなわけで映画や芝居では、いちいち神さまの許可を得てから恨めしやー、と両手を七三に構えるという話は聞かないにしても、いったい何を基準にして許可、不許可になるのか、そこをいちど神さまにお伺いしたいところだが、そんなことを考えるのは神を恐れざるもの、冒涜するも甚だしいというべきだろう。


こうして見てくると日本の幽霊は直情径行というか、恨みを晴らすという一点に集約されるから、酔っ払ったり人間に騙されるような、そんないい加減な幽霊は最初から神さまにハネられてしまうのかも知れないし、怪談などでこの世に出るについて、神さまの許可を得る手続の部分などは、話として詰らないからカットしてあるのかも知れない。東洋と西洋の違い、同じ東洋でも国による違いがずいぶんある。その根幹には国土形態の違いからくる民族的な体質、思想の違いがあるから、どちらがよくてどちらが悪いと一概にはいえないにしても、私のような極楽とんぼには日本の幽霊の陰惨さに、ちょっとついてゆけないところがある。
 
南無阿弥陀仏、なむあみだぶつ。