小林 夏冬
端午
端午の節句は男の子の慶祝日だから、この日に生まれた男の子は、日本中がその誕生を祝ってくれるようなものだ。まわりからも羨しがられ、こんなよいことはない。私の兄の一人も五月五日の生まれで、いつもそれを自慢していた。私も子供ごころに羨しいと思ったものだが、こういっては五月五日生まれの人に済まないことながら、古代中国では必ずしもめでたい日ではなく、唐時代以前は五月五日に生まれた子は育たないし、育っても自殺するとされ、あるいは親を殺すとして嫌われた。それを知ったとき、国が違うとこんなに変わるものかと思ったが、捨て子にされたという文献もあるから、日本で丙午生まれの女が嫌われたのと比べても、もっとその程度は甚だしい。もちろん、これはどちらも根拠のない俗信に過ぎないが、そもそも古代中国で五月、九月は悪い月とされていた。
『燕京歳時記』の五月「悪月」の項には、「京師諺曰善正月悪五月」【都の俗言で一月はよいが五月は悪い月だ】として、以下に『荊楚歳時記』を引用している。日本の五月は暑からず寒からず、花は咲き若葉が茂り、年間を通していちばんよい時期だが、それは日本に住み、太陽暦で考えるからで、その点は国により時代によって違ってくるし、またその土地の風俗、習慣によっても価値観は分かれる。『燕京歳時記』に引用された『荊楚歳時記』には、「五月俗称悪月多禁忌牀曝薦蓆」【五月は俗に悪い月とされ、物忌みが多くベッドやシーツを干してはいけない時期だ】とある。陰暦五月五日はいまの六月半ば過ぎになるから、太陽暦でいえば立夏をとうに過ぎた夏至、桜桃忌のころで、東京は割と雨の多い時期となるが、中国南部は別として北部では梅雨などないのだろう。
『荊楚歳時記』が引用した『異苑』に、「新野諛寔嘗以五月曝蓆忽見一小児死在蓆上俄失之其後寔子遂亡或始於此」【新野に住む諛寔の妻、毛が、五月にシーツを干したところ娘の死んだ姿が見えた。それはすぐに見えなくなったが、十日もしないうちにその子は死んでしまった。五月は悪い月だというのはそこから始まった】とあって、それから五月に蒲団やシーツを動かしてはいけないとか、干してはいけないということになったが、いささか頼りない話といわざるを得ない。そのほかにも原文は略すが『史記』に、【田文は五月五日の生まれだった。父は五月生まれであることを嫌い、母にこの子は育ててはならないといった。しかし、母は隠れて育て上げた】という一節がある。その子が長じて孟嘗君となったのだから、それだけを見てもいい伝えなるものが、いかに当てにならないかが分かるというものである。
いまは特別なケースでない限り産院や病院で生まれたり、死亡するから、医師や看護師によって誕生日や、死亡日時も記録されて変えようもないが、戦前、そして戦後も、自分の家で生まれたり死んだりする人が多かったから、誕生や死亡の届けなど、いまと比べるとルーズなところがあった。縁起を担いで生年月日をずらしたり、相続問題が絡んで死亡年月日を遅らせたりというような話は特別珍しいことでもなかったし、現在では考えられないようなミスも間々ある。現に私の兄弟は幼くして亡くなったものも含め、正しくは十一男二女だが、戸籍上では十男二女の十三人兄弟という、考えられない記載になっている。
戸籍謄本によれば大正十一年生まれの四男がいて、その次に五男となるべき大正十三年生まれの兄がいて、その兄も四男となっているから四男が二人いることになった。この二人の四男がどちらも大きくなっていたら、いったいどういうことになるのか、戸籍係に聞いてみたい気がする。実際は最初の四男は一歳二箇月で夭折し、次の子もうっかり四男として届け、受け付けるほうもなんとなく受け付けてしまったのだろう。しかし、うっかりであろうとなかろうと届けが受理され、戸籍簿に記載されるときも、その間違いに気づかず通過してしまった以上、四男が二人いたという事実は消えない。そして問題の二人の四男に続いて、大正十五年生まれの五男となっているから、届け出たほうはうっかりで済むとしても、そのまま受け付けたほうはいまなら責任問題に発展するかも知れない。それが今もって戸籍謄本が訂正されていないということは、とうとう誰も気がつかないまま、現在に至ったということになる。私が生まれる一昔前、古きよき時代の、わが家の戸籍にまつわる話である。
私ごとは措くとして年の暮れに生まれたものを、縁起を担いで元日の生まれにする場合と違い、届け出制度そのものがなかった古代中国にあって、生まれた子の生年月日をずらしても、そこになんの実益もない。わが子の生年月日を親が消すことは出来ないから、間引いたり、捨て子にすることの善悪は別として、迷信に囚われた親が五月五日生まれの子を間引く、あるいは捨て子とし、その子の存在そのものを抹消しようとした心理は分からないでもない。中国で五月五日生まれの子は、成人すると親を殺すと信じられていたころの話である。
『荊楚歳時記』はほかに五月の記事として、「五月五日云之浴蘭節」【五月五日を浴蘭節という】とあり、蹋百草といって踏青や草合わせをしたり、艾人、艾虎といって、艾で人や虎を作って門に懸けたりする。そのほかには菖蒲湯といって、菖蒲の葉を刻んで酒に入れて飲むが、ここでいう菖蒲は石菖のことで、この石菖の根を摺り下ろし、酒に入れて飲んだという説もある。だから日本の菖蒲湯は入浴するものだが、中国の菖蒲湯は菖蒲酒ともいうべきもので、中国で入浴するのは蘭を入れた湯をいい、これを蘭湯という。
この蘭はフジバカマのことで、ほかの薬草を入れたりもするが、『塵袋』では「蘭湯ト云フハクスリ湯カ、潔斎カ」として、「雲中君ノ哥ニ蘭湯ヲ沐スルヲ、沐芳ト号スト云ヘリ。蘭ハカウバシキモノナレバ、キヨカランガ為ニアムルナリ、クスリユニアラズ。楚国ノ南郢ノ里ニ、神明ヲマツルコトヲニクミテ、屈原ガツクレル哥也。今ハ精進セネドモ湯ヲバ蘭湯ナド云ヘリ」とあるから、本来の蘭湯は薬湯としてではなく、その薫りをもって精進潔斎のために浴びた。ただ、『塵袋』が書かれた当時はもう精進潔斎の意味は薄れてしまったが、薬湯という受け止め方になっている日本と、精進潔斎のためとする古代中国では、菖蒲湯、蘭湯の意味そのものに違いがあったことになる。
日本の競渡は長崎が有名で、ペーロンといったほうが通りがよい。また、雑薬とは薬草取りのことで、この日に取ったものを陰干しにして保存する。その他の行事としては長命縷や粽を作ったり、蝦蟇を捕ったり、啄木で歯痛を止めるなどの記事がある。まず、競渡の項は「五月五日競渡俗為屈原投汨羅曰傷其死故」【五月五日に競渡をする。屈原が汨羅の淵に身を投げた日で、その死を悼んで行う】という記事があり、ペーロンについてはまた後で述べる。次に『五雑組』三月三日の項に、「寒食禁火託之介子推五日競渡託之屈原皆俗説耳」【寒食の禁火を介子推にかこつけ、競渡を屈原にこじつけるのは俗説だ】としている。この競渡は児島高徳の詩で馴染が深い、越王勾践に始まるものだという説もある。こういう記事は文献が豊富にあるから、文献に振り回されて収拾がつかなくなってしまう。
五月五日生まれの子については『五雑組』「天部二」も『史記』とほぼ同様で、「五月五日子唐以前忌之今不爾也」【五月五日生まれの子は、唐以前には嫌われたものだ。だが、今はそうでもない】とし、「考之載籍斎則田文漢則王鳳胡広晋則紀邁王鎮悪北斎則高綽唐則崔信明張嘉宋則道君皇帝金則田特秀」【文献にあるものを見ても斎の田文、漢王の鳳胡広、晋の紀邁、王鎮悪、北斎の高綽、唐の崔信明、張嘉、宋の道君皇帝、金の田特秀】などが五月五日生まれだとしている。そして「然而覆宗室国者高綽道君二人耳」【だが、国を滅ぼしたのは高綽、道君の二人だけだ】という。この二人はたまたま出来がよくなかったため国を滅ぼしたが、それは五月五日という生年月日のせいではないとしている。当り前の話だが迷信に囚われた当時は、なかなかこういう割り切り方は出来なかったろう。
このなかで田特秀には五の縁という別項目があり、端午そのものとは関係ないので原文は略す。この人は科挙試験に合格した進士で、生まれたのは五月五日、俳行は五番目、進士となるため四度の試験を受け、いずれも五席の成績で、五十五歳のとき、五月五日に死亡した。ここまで五が重なるのも珍しいところから特記されている。ここに出てくる俳行とは一族の中というか、兄弟中の子の生まれた順番のことで、兄弟順、姉妹順というと一家族内のことになるが、俳行順となると兄弟姉妹ぜんぶの子、つまり従兄弟、従姉妹をみな含めた一族内での生年月日順になるから、子沢山の家系では俳行が四十番目、五十番目などはざらにあることになる。
『五雑組』の記事を引用したのが緑園書房、喜多村信節著『嬉遊笑覧』で、「正五九月に婚姻を忌む」とし、「今按るに五月は忌月なればよろづをはばかる」という。また、それに続けて「今世も正五九月に婚姻を忌む、是を斎月といふ」ともあり、「漢土には五月五日誕る子を忌むこと、古き習俗と見えて孟昭君、王鳳、胡広など始てあまた故事あり」としているが、その故事については特別に言及していない。そして『五雑組』『唐書』を引用して五月、九月は災の月であるとし、この月に死刑をしたり、家畜を殺したりしなかったという。その中国の古い故事が日本に伝わり、さらに形を変えながら江戸時代まで受け継がれ、「今、此三月は召使の出替ることをせざるは漢土の習俗をうけたるなり」【三月に奉公人を止めさせたり、新しく雇ったりしないのは、中国の風習を受け継いでいるからだ】としている。ついでにこれは伝聞だが、昭和の始めころまで女が五月に髪を洗うのはよくないとされ、頭を洗わない習慣が残っていたところがあったという。
もっとも、そういうことをいい出したらわれわれがいま、なんの気なしに見過ごしている習慣や、行事その他の淵源を辿れば、古代中国に由来するものがいかに多いことか。季語はもちろん、四字熟語の殆どはその範疇を出ない。そのほかちょっと思いつくだけでも天皇、皇后を始め朕、陛下、殿下、万歳、内閣、果は褌、厠その他、いま、われわれの身のまわりにある言葉は、古代中国から移入したものが実に多い。発音が違うし、品物や行事、習慣などはあまりにも当たり前になっているから、われわれはそれを改めて意識していないというだけの話である。ここでちょっとお断りすると、これは別に『嬉遊笑覧』に限ったことではないが、江戸時代の文章には句読点や濁点のないものが多く、当字が使われていたり、変体仮名で書かれたものも頻繁に出てくる。馴れてしまえばどうということはないのだが、最初はまごつくのでこの本では句読点、濁点を補い、当字や変体仮名は直してあることを申し添えておく。
『呂氏春秋』五月の項に、「令民無刈藍以染〔為藍青未成也〕無焼炭〔為草木未成不欲天物〕」【民に告げる。藍を染め物に使ってはいけない。〔まだ成長しておらず、早いからだ〕炭を焼くな。〔いまは草木の伸びる時だから切ったりして自然に逆らってはならない〕】とし、続けて「無暴布〔是月炎気盛猛暴布則脆傷之〕」【布を干すな。〔この月は暑さが厳しいから、布を日に曝すと傷むからだ〕】という。敷布や蒲団を干そうが干すまいが、おれの勝手だろうといいたいところだが、お触れはまだある。「門間無閉関市無索〔門城門也民順陽気布散在外人当閭里門出入故不閉也無索不征税〕」【門を閉めるな。〔門とは城門である。民は陽気に従ってこの門を出入するのだから閉めたり、綱を張ってはならない〕】としている。それについては『淮南子』にも、「令民艾藍以染毋焼炭毋暴布門閭毋閉関市毋索」と、その意味は変わらないにしてもやや簡略な形で記載されており、その点は『礼記』も『淮南子』と同じ記述となっているが、『礼記』『淮南子』は『呂氏春秋』を下敷きにしているのだから当然のことといえる。
『呂氏春秋』は続けて「是月也日長至陰陽争死生分君子斎戒処必慎身」【この月は夏至となって陰と陽の気が争い、死生を分つときだから、君子たるもの斎戒して身を慎み】「欲静無燥止声色無或進」【動くな騒ぐな無駄口利くな】といい、挙げ句の果ては「薄滋味」【味つけを薄くせよ】云々、君子たるものはああすべきである、こうすべきであると説く。おらっちは君子じゃねえからいいんだ、おれの布をおれが干そうが破こうが、そんなことはおれの勝手、動くな騒ぐな声出すなとはなんのこった、放っといてもらおうと、つい憎まれ口の一つも叩きたくなるが、それもいまのわれわれの感覚で、秦の時代にそんなことをいってお上に逆らったら、たちまち牢にぶち込まれ、入墨の一つも入れられてしまう。日本でも島送りに処せられると入墨をされるが、これは二の腕など隠すことができる場所だからまだよい。しかし、古代中国で行った犯罪者に施す入墨は、顔の半面とか全面にやられるから隠しようがない。
この『呂氏春秋』が著された秦の時代、政は王であっても秦の始皇帝を名乗る前のことで、このころから以後の秦は、中国の歴史上もっとも法律にうるさかった。何ごとも法で細かく規制し、重箱の隅をつつくように法を運用したため、犯罪は減った代わり、人民は自由に身動きもならず、息の詰まるような生活を強いられた。その反動が前漢の劉邦によるあの有名な盗むな、犯すな、殺すなの法三章で、この三章ですべてを律した。だが、これは別に劉邦の人柄によるものではなく人気取りのため、人民の支持を得るためだけのものだから、劉邦は攻め落とした秦の城内へ入って、まずやったことは掠奪である。張良が諌めたために事なきを得たが、その忠臣がいなかったら歴史も変わっていたことだろう。
話を少し戻す。夏の強い日差しで布が傷むから布を干すなという、その延長が『荊楚歳時記』にもあるように、この時期はベッドやシーツを干してはいけない、ということになる。ただ、『荊楚歳時記』のころになると縁起担ぎの要素が大きくなって、【こどもがベッドで死んでいたから】干してはいけないとか、【五月に屋根へ上がると頭が禿げる】とか、【五月に屋根に上がった人が、影を見て魂が抜けてしまった】というような迷信から、五月には屋根に上がってはいけないということになる。
今から見ると馬鹿馬鹿しい限りだが、このころの人にしてみれば迷信などといって片つけられるものではなく、人々はただ恐れ戦いていたわけである。【 】内の言葉に品格が欠けるのは私が読んだからで、原典は呂不葦の食客一万人といわれるなかの、選ばれた学者による格調正しい文章だから、そこは誤解のないよう付記しておく。五月の禁忌については『酉陽雑俎』も同様で、「云五月人蛻上屋見影魂当去」【五月は人が脱け殻になる。屋根に上がると影を見て魂が抜けてしまう】とか、「老子抜白日」【老人が白髪を抜く日】などもある。決められた日以外に白髪を抜くのはよくないというわけだ。
ここまでは端午そのものではなく五月、あるいは五月五日について述べてきたが、『五雑組』は端午について『容斎随筆』を引用し、「張九齢上大衍暦序云謹以開元十六年八月端午健司獻之」【張九齢がお上に大衍暦を奉った文の序に、開元十六年八月、端午にこれを謹んで献上致します】とあるし、「又宋璟表云月惟仲秋日在端午」【また宋璟の上奏文に月は仲秋、日は端午にあり】といっている。だからその伝でゆけば「月之五日皆可称端午也余謂古人午五二字想通用」【月の五日をみな端午という。古人は五と午の音が同じだから、この二字を通用して使ったのだろう】といっている。午を五に流用したというわけで、「端始也端午猶云初五耳」【端は端っこ、始めだから、端午といえば初五と同じだ】とある。しかし、これはあくまでも流用であって、端五とは月初めの五日を意味し、端午は月初めの午の日だから、端五と端午では明らかに別の日である。三月三日と上巳は違うのと同じで、五と午の違いだから、端午と端五を同列に扱ったら間違いということになる。ただ、これも上巳や七夕と同じ方程式で、端午が五月五日に固定されてから話は別となる。
この端午の節句に中国では粽を作る。『荊楚歳時記』には「夏至節食糉」【夏至には粽を食う】とあるように、もともと粽は夏至の日の食べ物で、それが後世になって端午のものとされた。この粽は千巻、茅巻とも書き、もとは茅の葉で包んだところからこの名が起きたとされており、マニアックな人向きには糉、角黍とも書くが、いずれも粽のことである。ただ、千巻と書くと、機織り機の部品を意味する場合もあるから、その点は注意を要する。
その粽について『塵袋』は、「チマキト云フモノハ何ノスガタゾ」として「昔シ蛟龍、人ニ化シテ遊宴ノ所ニマジハリテ、人ヲ害シテカクレケルコトアリケルニ、諸人議シテ云ク蛟龍、人トナリテナクニ、ナミダ玉トナルコトアリケリ、ソノ類カ。五月ハ夏中ナリ、悪毒ノ獣、虫、温気アリテ、時ヲエテタゝリヲナス。五月五日、ミナ魚獣ノ形ヲツクツテ腰ニツケ、茅ノ葉ヲ以ツテ飯ヲツツンデ龍ノ形ニナシテ、宴集ノ時ツキテ食セバカノタグヒ、サダメテイタミオソレンカト云ツテ、ソノマゝ座ルニ中ニ一人ノ老人来テ座ニツク、己ニ魚形ヲツケズ、又、龍ノ形ヲキリヤブルニ、カホノ色変ズ。ソノトキ諸人、コレヲトラヘテコロシツト云フ事アリ、コレニツクルモノハ、今ノ世ニモチフル魚袋ナリ。龍形ト云フハ糉ナリ、又、粽トモカク、玉篇ニ蘆、竹ノ葉ニ米ヲ裹ムト釈セリ。風土記ニ曰ク、菰ノ葉ヲ灰汁ヲ以テ之ヲ煮ルニ同ジク、爛熟也。五月五日、之ヲ啖フト云々。魚袋ヲバ博聞録ニハ、上代ニハ葦ヲ以テ之ヲ為スト謂フ、算袋ト云ヘリ」というから、そもそも粽の起源は夏、毒虫除けのおまじないとして飯を竹や茅の葉で龍の形に包み、それを魚袋、算袋などといって腰につけた。それによって毒虫の類は恐れをなすだろうというもので、これが後の世になって泪羅の淵に身を投げた屈原の霊を慰めるため、水に投げたといわれるようになった粽の起源である。
日本では戦国春秋の世といって、戦国時代と春秋時代を一括しているが、中国の春秋時代と戦国時代は、時代としては連続していても時代区分としては別で、紀元前七百七十一年から四百三年までは春秋時代、続く四百二年から二百二十一年までは戦国時代とされ、紀元前二百二十一年に秦の始皇帝、そのときはまだ始皇帝を名乗る前なので政といっていたが、この政が当時の中国統一を成し遂げ、戦国時代は終焉を告げる。春秋時代以前は千八百もの小国が並立し、春秋時代に入ってからでさえ百四十もの国があったというが、のちに至って秦、韓、趙、魏、楚、燕、斎の七雄に収斂され、その中でも小国であった秦が最後まで残って中国を統一した。
その戦国時代、楚の政治家であり、また伝説的詩人でもあった屈原はその名を平、正則ともいい、字は原、霊均ともいう。屈原という名は官名で、日本でいえば信濃守、美濃守といったようなものである。春秋時代末期に楚の公室一族の家に生まれ、楚の国にあって政界に重きを成したが、讒言によって時の懐王に遠ざけられ、漢北へ追放される憂き目に会う。そのとき屈原を懐王に中傷したものを弾劾し、政治を本道に戻すべきであるとして「離騒」という詩を書いた。この詩がまたしても災の元になろうとは、屈原も神ならぬ身の知る由もない。第一次追放を解かれ、政界に復帰したのち、「離騒」の内容を懐王の子、頃襄王に再び中傷され、江南へ第二次追放処分されることになる。この詩が政争の具にされたわけだが、二度目の讒言の原因となった「離騒」は『詩経』と双璧を成す詩集、『楚辞』に残されている。
『十八史略』には「初屈平為懐王所任以讒見疏作離騒以自怨至頃襄王時又以譖遷江南」【始め屈原は懐王の信任ことのほか厚かったが、讒言されて疎まれた。そこで「離騒」という詩を作って自らを慰めた。その後、頃襄王のときこの詩の内容が不穏であると謗られ、再び江南へ配流された】二度目の追放のとき屈原は信じて疑われ、忠を貫いて謗られた。これを怨まずにいられようか、と懐に重しの石を詰めて泪羅の淵に身を投げた。紀元前三百十四年のことである。ここまでは史実だが、その先、屈原の霊を慰めるために作られたのが粽だという部分は、屈原にこじつけた話ということになる。それはまた『和漢三才図会』の項で述べるとして、史実としては秦という国は虎や狼の集りのような国だから、そんなところへゆかないほうがよいという屈原の忠言を無視し、懐王は秦へ親善訪問した。その結果は屈原の予言通りとなって「秦人執之」【秦人はこれを捕らえて帰さず】懐王を抑留し、のち、懐王は他国に一時身を寄せたこともあったが、また秦に戻り、その地で客死した。そして楚は秦のために滅ぼされることになる。
『五雑組』は五月五日の行事をいろいろ挙げている。「古人歳時之事行於今者独端午為多」【昔の人がやっていた年中行事でいまも行われているのは、端午の節句に関するものが多い】として、「競渡也作粽也繋五色絲也飲菖蒲也懸艾也作艾虎也」【ボートレースをする、粽を作る、五色の綾絹を編む、菖蒲酒を飲む、艾を挿す、艾で虎を作る】とある。五色の綾絹を編むというのは、五原色が綾なす美しさによって悪霊を退散させるというもので薬玉、吹き流しなどがそれに当たる。また、蓬や菖蒲を軒に挿す風習も日本に受け継がれている。『五雑組』はさらに「佩符也浴蘭湯也闘草也采薬也書儀方也」【護符を身につけたり、蘭湯に入ったり、草合わせや薬草取りをし、お呪いの札を書いたりする】といっている。
そして「而又以雄黄入酒飲之并噴屋壁牀帳嬰児塗其耳鼻云以辟蛇虫毒」【その他には酒に硫黄を入れて飲むが、この酒を室内の壁やベッド、カーテンに吹きつけたり、赤ん坊の鼻や耳に塗る。これは蛇や虫の毒を防ぐ】効能があるといい、さらに「蘭湯不可得則以午時取五色草沸而浴之」【薬湯に使う蘭がない時は、午の刻に取った五色の草を入れた湯を沸かし、これを浴びる】としている。この蘭は日本でいう蘭ではなくフジバカマのことで、フジバカマは刈り取ったあといつまでも芳香を放つという。そんなこんなでこの日は行事が多かった。そのなかの競渡について「楚蜀為甚吾閩亦喜為之云以駆疫有司禁之不能也」【楚、蜀地方では盛んに行われ、わが閩でもみな喜んでやっている。疫病を退散させるためだといって、お上が禁止してもいうことを聞かない】といい、嘆いているのかお上を皮肉って喜んでいるのか分からない。
話の本筋から外れるので原文は略すが、この『五雑組』には「二十四番花信風」というものがある。ここでは文章になっているが、『和漢三才図会』では図譜になっているから、やはり図形になっているもののほうが見やすいというか、全体像を一目で見ることができる。二十四節気のうちの小寒、大寒、立春、雨水、啓蟄、春分、清明、穀雨の八節を、それぞれ三候に分けて花を割り当てたもので、小寒を例に取れば一候が梅、二候が山茶花、三候が水仙というように、それぞれに分けて花を割り当てたもので、五日を以って一候としているから、これも七十二候の一部といえるだろう。それが高井蘭山の『年中時候弁』にも取り入れられている。それと似ているのが上田秋成の『追擬花月令』で、この『追擬花月令』が二十四番花信風と違う点は、小寒から穀雨までの八節だけではなく、一年を通じているから二十四番花信風の年間版といえる。『五雑組』はこの他にも天候に関する諺や、夏至後、冬至後の九九気候諺があって、これもなかなか面白い。こういうものを見ると、とてもそのまま通過できなくなってくる。専門書だと面白そうだからといっても、そこまで逸脱できないだろう。しかし、素人が書くものはその点は自由自在、序でだからここに挙げるとして、これも原文は略す。
まず夏至後の九九気候諺は、一九と二九は扇子を放せない、三九、二七は氷が密のように甘い、四九、三六は汗がだらだら流れる、五九、四五は頭上に紅葉が舞う、六九、五四は涼しくなったからお寺に入る、七九、六三は枕元の上掛けを探す、八九、七二は着膨れてくる、九九、八一は石段の陰で蟋蟀が鳴くとなっている。一方、冬至後の九九気候諺のほうは、一九と二九は逢引しても寒くて手を出せぬ、三九、二七は虎落笛が鳴る、四九、三六は露の玉のように眠る、五九、四五はお日さまぽかぽかあったけえ、六九、五四は貧しい子が喧嘩すると続く。このうち涼しくなったからお寺に入るというのと、貧しい子が喧嘩するというのは、説明がないからどうしてそうなるのか分からないが、諺はさらに続く。七九、六三は坊さんが頭巾を被る、八九、七二は猫や犬が風除けの物陰を探す、九九、八一はそろそろ農事の鋤や馬鍬を出すというもので、これが町方になるとちょっと趣が変わる。
一九と二九は相逢いて手を出さずとあって同じだが、三九と四九はストーブ囲んで一杯やるべえ、五九と六九は親を訪ね、友を探す、七九と八九は川岸の柳を見るというもので、どうも私の読みは品位に欠ける。九九算としては必ずしも順接していないが、『五雑組』が書かれたこのころ、九九は既に一般民衆にまで普及していたのだろう。このなかで一九、二九とか三九、四九とか五九、六九というのは掛算の誤りではなく、一九と二九のころは、三九と四九のころはということで、たとえば二九というのは二番目の九の日、三九とは三番目の九の日という意味で、以下も同様である。そして古老がいうには「按此諺起於近代宋以前未之聞也」【この諺は最近のもので、宋以前にそんなことはいわなかった】としている。九という数は中国では陰陽道からきた数で、五節句も本当なら九月九日の重陽のあと、十一月十一日があって六節句となって然るべきだが、九は陽の極みであるという思想によって、重陽で留めになるから五節句で終わりとなる。その九月九日の重陽は、九の陽が重なるから重陽という。
江戸時代の不定時法はこれを踏んでいるから午前、午後とも十二時の九ツから始まる。二時の八ツ、四時の七ツ、六時の六ツ、八時の五ツ、十時の四ツと減っていって四ツ以後は三ツとはならず、また十二時からの九ツに戻って繰り返してゆく。その場合、時期によって昼と夜では長さが違うが、その違いを無視して機械的に昼を六等分、夜を六等分するから、同じ一刻でも昼と夜とでは長さに違いがある。それが不定時法といわれる所以で、始まりが九ツからというのは、陽の極みを始点とするという意味合いからは分かるし、四ツで終わりになるのも一日を二等分しているから、午前十二時から始めて午後十二時で元に戻るには、四ツで終わらないと合わなくなる。だからそれも分かるのだが、なんで数が逆行するのかと聞かれたら答えに詰まる。私はそこまで知らないからだ。これは私だけが分からないのではなく、その道の専門家が書いたものを読んでも、各種の説を紹介しているが、これが正しい説であると断定できるものはないとしているので、そういうときは素人の特権として「知らない」で済むから便利なものだ。
ただ、ここから述べることが数の逆行する一つの説明になるだろう。上田秋成の『七十二候集解』を見てゆくと、「九を数の限として子は九なり、合はせて丑は八なり、又合はせて寅は七なり、卯は六なり、辰は五なり、巳は四なり、又午より九に立帰りて亥に至るも同じ」とある。このままではなんのことか分からないから補足すると、九を陽の極みとするから、それに十二支を当てはめると最初の子から始まり、子の刻は九ツ、次に二番目の九だから九に二を掛けて十八となる。そこから十の桁を除外すると、丑の刻は八ツとなり、三番目の九だから九に三を掛けて二十七、そこから同じく十の桁を取ると七ツが寅の刻、四番目の九だから九に四を掛けて三十六、そこから三十を除外した六ツが卯の刻、五番目の九だから九に五を掛けて四十五、そこから同じように十の桁を除くと残るのは五ツ、だから五ツが辰の刻で、次は六番目の九だから九掛ける六が五十四、そこから十の桁、五十を引いた四ツが、巳の刻ということになる。
そこからまた同じ計算式で、九ツから始まるわけだが、次の九ツは子の刻ではなく午の刻となり、以後は羊の刻、申の刻、酉の刻、戌の刻、亥の刻となって、二十四時間が一まわりする。だから同じ十二時でも子の刻というか、亥の刻かというかによって午前か午後かが分かるようになっており、その一刻をまた一時間ごとに区切って子の上刻、子の下刻、丑の上刻、丑の下刻と数えることになる。そして「是は其始何の為に初九なりや、何の理にてかく数を立やととはヾ、黙せんものぞといはれたり」上田秋成ほどの知識人でも、なんで九ツから始まるんだ、どうしてそんな数え方をするんだと聞かれたら、これはもう黙るしかないといっている。難しいものだから私など一度や二度聞いただけでは理解できないし、その時には分かっても、翌日にはもう分からなくなってしまうが、当時の人々にとっては、それが習慣となっていたから迷うこともなかったのだろう。ただ、格式のあった吉原の花魁、何々大夫と呼ばれるものはそれを理論上からも理解し、時計を合わせることができるのも、教養の一つとなっていたことからも分かるように、一般人にとっては少々ややこしいものであったのは確かである。
話のテーマである端午からすっかり外れてしまった。愛想をつかされてしまうから、粽に話を戻すことにする。粽はもともと夏の食べ物で、それが屈原に由来するもの、とされてしまったことは既に述べた。ということはこの粽の起源にも二説あることになる。菖蒲は私がこどものころ、五月五日に蓬と一緒に軒に挿したので、菖蒲のよい匂いをいまでも思い出す。そのころは理由など何も知らないで、ただ習慣としてやっていたに過ぎないが、その起源や理由はこんなところにあったわけだ。『拾芥抄』の年中行事十四に「この日、内裏などの殿舎に菖蒲を葺く」とあるが、そのころ既にこの風習は日本に渡ってきたことが分かる。『和漢三才図会』は端午の項で『拾芥抄』を引用し、菖蒲には「アヤメ」とルビを振っているが、このルビは後世に至って誰かが書き足したものと思われる。
次いで『大戴礼』『本草綱目』『五雑組』『荊楚歳時記』『続斎諧記』など、各種の文献を引用しているが、『続斎諧記』を引用した部分は「屈原是日投泪羅死楚人哀之毎至此日以竹筒貯米投水祭之」【屈原がこの日、泪羅で投身自殺した。楚の人が屈原を哀れに思って毎年の命日、竹筒に米を入れて水に流し、祭った】というのは、『和漢三才図会』がいうところの粽を屈原にこじつけた話だが、これにはまだ続きがある。「漢武中長沙区回忽見一士称三閭大夫〔屈原官名〕」【漢武年間のこと、長沙の区回という漁夫の前に突然人が現れ、おれは三閭大夫〔屈原〕だが】といってあることを頼んだ。それは「曰見祭甚善但当年所遺為蛟龍所竊今若有恵以楝葉塞筒五綵線縛之此二物蛟龍所慍」【いつもおれを祭ってくれるのはまことに有難く思っている。だが毎年、せっかくのお供え物を龍のやろうに盗まれて困っている。それについてのお願いだが、これからは米を入れた竹筒を楝(せんだん)の葉で塞ぎ、五色の糸で縛ってくれ。この楝の葉と五色の糸は龍が嫌うものなんだ】と頼んだ。そこで「故回依言作粽竝五綵線及楝葉皆泪羅遺風也」【区回はいわれた通りにして粽を作った。だから粽を作るのに五色の糸と楝の葉を使うのは、泪羅でのやり方から始まったものだ】とあって、これが『和漢三才図会』でいうところの後世の付会、こじつけた話ということになる。
屈原へのお供え物を横取りする龍も龍だが、供物どろぼうを避けるために龍の嫌うもので包み、盗難予防をする屈原も少々セコイとしか思えない。とはいうものの、なにせ相手は怨念が凝り固まって、白昼に姿を現したくらい神通力がある。もはや人智を超えた存在だから、こんなことをいうと屈原にとり憑かれてひどい目に会うかも知れない。この五色の糸については五原色の美しさによって、邪気を払う力があると信じられており、そのために龍もこれを嫌うとされたのだろう。それが後世になって五色の吹流しや、薬玉に変化してゆくのだが、この話は『荊楚歳時記』にも載っている。端午だけの話ではないが、いろいろな話が、いろいろな古書に掲載されており、読んでいるうちに頭がこんがらかってくる。どうも安い頭しか持ち合わせていないから、苦労すること甚だしい。
『和漢三才図会』の特徴は引用した文献の後に△印をつけ、良安のコメントがつくことで、端午の項には「△天平十九年詔曰五月五日百官諸人須掛菖蒲鬘如否者不許入宮中」【天平十九年に詔があり、五月五日に参内する者は誰であろうと、菖蒲の鬘をしないものは宮中に入ることを許されない】として『拾芥抄』を引き、この日は主殿寮、内裏の殿舎に菖蒲を挿すとある。さらに「唐人来寓居長崎逢此日則乗数艘小船立旗幟而争先喚曰排龍排龍以速為勝乃是競渡也蓋為屈原之霊逐龍之意乎」【日本にいる唐人は長崎に住んでいるが、この日はみな集って数艘の小舟に乗る。舟には旗や幟を立て排龍、排龍〔ペーロン、ペーロン〕と喚きながら先を争って漕ぐ。これを競渡といって、屈原の霊のために龍を追い払うものだ】としている。これが現在も行われている長崎のペーロンの起源で、この行事は投身自殺した屈原を助けるため、舟を出したのだといい、また、雨乞いのため、あるいは悪疫退散のためともいい、時代の推移とともにその意味が拡散してゆくよい例だろう。
『和漢三才図会』はさらに続く。「此日毎家立旗及甲冑刀等兵器〔俗呼曰冑人形〕」【この日になるとどの家も旗を立て、鎧兜や刀などの兵器を飾る。これを俗に武者人形という】が、「其刀以菖蒲飾之仍号菖蒲刀也」【刀に見立てた菖蒲を飾るので、菖蒲刀という】としている。この菖蒲刀については『近世風俗志』の項でまた述べる。そして「荊楚歳時記云荊人皆蹋百草採艾為入懸於門上以攘毒気此与冑人形趣相似矣」【『荊楚歳時記』に荊の人は野に出て艾を取り、これを門に懸けて毒気を祓った。これは武者人形と似た趣のものだ】としている。この武者人形について『和漢三才図会』は、その出典までは記していないが『近世風俗志』はその出典を『世事談』としている。
『和漢三才図会』は続けて、「相伝光仁天皇天応元年蒙古賊来令早良太子討之」【伝えるところによれば、光仁天皇の天応元年に蒙古の賊が襲来したので、早良太子にこれを討たせた】とある。そして「太子祷藤森社而出陣時五月五日忽神風吹瓢敵船立皆敗走不戦而勝」【太子は藤森神社に祈祷して出陣したところ、その日は五月五日だったが神風が吹いて敵船を覆したため、敵はみな戦わずして敗走した】とある。だから「以此因縁至今五月五日祭皆用兵器」【そういうことがあったのでそれ以来、五月五日には兵器を祭る】のだといい、続けて「蓋其比蒙古襲来之事嘗不見乎国史恐謬説也」【だが、そのころ蒙古の襲来があったとは史書に記されていない。だから恐らくこの説は誤りだ】と『近世風俗志』と同じ結論を下し、五月五日生まれの子が嫌われたという記事でしめ括っている。
次は呉自牧の著になる『夢粱録』だが、これには五月五日の項に屈原や競渡は出てこない。この本は南宋の首都、臨安の風俗を記したもので「五日重午節又曰浴蘭令節」【五日は重午節、浴蘭節などという】としたうえで、宮中における行事というか、天子から宰相以下百官、後宮にまで下賜される、いろいろなものについて述べている。また、民間の風俗についても言及しているが、それには「杭都風俗自初一日至端午日」【杭都一般の風俗として、一日から端午までの間】は「家々買桃柳葵榴蒲葉相遣又并市艾粽五色水團時果五色瘟紙当門供養」【どの家も桃、柳、葵、石榴、蒲の葉などを贈答し合う。また艾、粽、五色の水団子、旬の果物などを供え、五色の厄除紙を門口に張ったりする】ので、そういうものを売る売子が町に大勢繰り出し、「自隔宿及五更沿門歌売声満街不絶」【明け方まで物売りの声が門前を通り、その売声や物音は町じゅうに響いて絶え間ない】というから、日本でいえばひところの大晦日のような、さぞや賑やかなものだったろう。
『夢粱録』端午の項はさらに続く。「此日採百草或修製薬品以為辟瘟疾等用蔵之果有霊験」【この日はいろいろな草を取って精製し、これらを漢方薬として使うが、その効目は霊験あらかただ】といい、「杭城人不論大小之家焚焼午香一月不知出何文典」【杭都の人は貧富を問わず、午香を一月も焚き続ける。どうしてそういうことをするのかは分からない】といっている。この端午の習俗が日本と違う点は、中国ではこどものお祝いだけでなく家内安全、毒虫除け、厄払いなど、家族全員がそれに関わっていることである。日本では音が同じところから菖蒲を尚武に引っ掛け、男の子の祝となった。雛祭りが女の子の祝い、端午が男の子の祝いとして定着したわけである。
ただ、この『夢粱録』は南宋のものだから、中国ではこうなのだと十把一からげにすることは出来ない。中国とは比べ物にならないくらい狭い日本でさえ、北海道と沖縄ではその風習や言葉までが違うのと同じで、楚の国に『荊楚歳時記』、南宋に『夢粱録』があるように、北京にも北京の歳時記がある。それが敦崇の著になる『燕京歳時記』で、北京の一月から十二月までの諸行事や風俗を記している。その流れでお江戸にも自前の歳時記がたくさんあり、なかでも『東都歳時記』はその最たるものだが、その他にちょっと見ただけでも『山城四季物語』『諸国年中行事』『閭里歳時記』『正月揃』『民間時令』『年中故事』『北里年中行事』『案内者』『芝居年中行事』『おとしばなし年中行事』など枚挙に暇ない。これらもみな歳時記というべきもので、季語集である季寄せの『栞草』などとは、同じ歳時記という呼称でも、その体裁や内容が異なることはもちろんである。ほかに『燕京歳時記』だけでなく、いろいろな文献にしばしば出てくる「綵糸」は、時代や場所によって長命縷、統命縷、五色縷、辟兵曾、五色絲、朱白索、朱索、百索、綵索などといい、いずれも五色の糸を使うが、それは五色の糸の美しさで邪気を払うという意味で共通する。これが五色の吹流しや薬玉の原型で、門に懸けたり作り物の虎を飾ったりするが、これらのほかにも時期によって、いろいろなものを門に飾ったり、張ったりした。それが形を変えて春聯に繋がってゆく。
『燕京歳時記』は端午に七項目を採録している。まず「端陽」のタイトルで、「京師謂端陽為五月節初五日為五月単五蓋端字之転音也」【北京では端陽を五月節といい、五日を五月単五という。これは端の音が転じて単となったものだ】として毎年、端午のまえには果物や餅、粽などを贈答し合うとしている。そして『続斎諧記』を引用して屈原の話を載せ、「是即粽子之原起也」【これが粽の起源だ】と結んでいるが、粽に添える餅が五毒餅といわれるとびっくりする。これはうどん粉を練った薄皮で餡を包み、それを茹でたもので、要するに饅頭のようなものを食うという。それを五毒餅というわけは蛇、蝦蟇、百足、蠍、蜥蜴の五種類の毒を避けることができるというもので、蜥蜴の代わりに蚰蜒とする場合もあるという。甘いものが好きな私でも五毒餅などといわれると二の足を踏むが、実際に目の前に置かれたら食い意地が張っているから、すぐに手を出してしまうだろう。次に「雄黄酒」として「起取雄黄合洒晒之用塗小児額及鼻耳間以辟毒物」【硫黄を酒に入れ、日に晒す。これを端午にこどもの額や鼻、耳などに塗り、もろもろの毒を避ける】というが、これは前記『五雑組』で既に紹介した通りである。
続いて三番目は「天師のお札」で、「市肆間用尺幅黄紙蓋以朱印或絵画天氏鍾馗之像或絵画五毒符咒之形」【巷間では一尺幅くらいの黄色い紙に朱印を押し、天師や鍾馗の像を描き、五毒や咒の図】を門に張っておくと、「以辟崇悪」【祟りや災を避ける】とあって、『後漢書』を引用している。次は「菖蒲、艾子」で、「用菖蒲艾子挿於門旁以禳不祥亦古者艾虎蒲剣之遺意」【菖蒲や艾を門に挿して災を払う。これは艾虎や蒲剣から来たものだ】としている。この艾虎は艾を虎の形にしたもので、人の形にした艾人というものもある。蒲剣とは菖蒲の葉を刀に見立てたもので、いずれも門に挿したり、懸けたりして毒気を払う。日本では蓬と菖蒲を軒先に挿すのはご承知の通りだが、それは『近世風俗志』で後述する。
五番目は「綵絲繋虎」で、「閨閣中之巧者用綾羅製或小虎及粽子葫盧桜桃桑椹之類以綵線穿之懸於釵頭或繋於小児之背」【手先の器用な女は綾絹や羅で虎や粽、瓢箪、夕顔、桜桃、桑の実などを作って色糸で繋ぎ、簪にかけたりこどもの背に結ぶ】というが、他のものはとにかくなぜ瓢箪などを作るのかというと、この瓢箪を門に掛けることによって、家の中の毒気を吸い取り、外へ吐き出してしまうことにある。それが「剪綵為葫盧」【瓢箪や夕顔を作る】の項で、「彩紙剪成各様葫盧倒粘於門闌之上以毒気洩」【色紙を瓢箪の形に切り、門へ逆さにして張る。それが家中の毒気を吸い、外へ出してしまう】ということになる。この考え方が『西遊記』に取入れられ、誰しも先刻ご承知の、孫悟空が妖怪の名を呼び、妖怪がうっかり返事をすると、瓢箪へ吸い込まれてしまう話になる。
次が「賜葛」【葛布の下賜】で、これは「内廷王公大臣至端陽時皆得恩賜葛紗及画扇」【王侯貴族、大臣に至るまで葛の薄布と画扇が下賜される】とあり、これなども下賜される品物に違いはあるにしても、『夢粱録』の記述と重複する。葛の薄布は葛の繊維を織って布にしたものだというから、沖縄の芭蕉布のようなものだろう。画扇の下賜については後の『事物紀原』「遣扇」でまた出てくる。皇帝が描いた絵扇を下されるもので、端午に関しては『燕京歳時記』も、他の文献と大差ないが、そこが特異点といえるくらい、全体的にほかの歳時記と内容が異なる。たとえば同じ三月三日という項目でも、この『燕京歳時記』には曲水や闘鶏などは一切出てこないから、他の文献の記事と重なるものはあまりない。この傾向は元旦や立春などを始めとして、一年を通じてのもので、その拠って来る所以は北京という、一地方の歳時記だからということではなく、その著者が満州貴族で、漢民族ではないということが大きく影響していると思われる。そういう意味で『燕京歳時記』は異色の文献といえるだろう。
これが『玉燭宝典』となると少し趣を異にする。『風土記』を引用し、「菰葉裹黏米雑以栗以淳濃灰汁煮之令爛熟二節日所尚啖之也」【餅米に栗を混ぜたものを菰の葉で包み、濃い灰汁でこれを煮て、馴染ませてから食う】としているが、さらに「亦煮肥亀擘擇去骨加塩鼓苦酒蘇蓼名為葅亀」【肥えた亀を煮てから、割いて骨を取り除き、各種の調味料を加える。これを葅亀という】が、これと節気に応じた韮と、薺を足して朝食にするという。その後に続けて『四民月令』を引用し、これをやれ、あれはやるなという記事のあと「距立秋毋食煮餅」【このあと立秋を過ぎるまで餅を食べてはいけない】とある。いちいちうるせえといいたくなるが、「裹黏米一名糉一名角黍蓋取陰陽尚相包裹未分散之象也亀骨表肉裏外陽内陰之形」【餅米を包んだものを糉、角黍とも言う。これは陰陽を包んで分散しないことの象徴で、亀は表が骨で肉は裏だから外は陽、内は陰の形である】として、「将気養和輔贊時節者也」【気を蓄えて和を養い、時節を輔け讃えるものだ】とする。そして「以五月五日朱索五色印為門戸飾以難止悪気」【五月五日は五色の綱を門に飾り、悪い気を防ぐ】のだという。
この五色の朱索というのは、五色の絹で作ったものを辟兵曾といい、これを門に飾ることによって、兵難を免れるものだという。国が興亡するたびに戦に巻き込まれ、蹂躙される庶民の嘆きを象徴する切実なものである。そして介子推、屈原の話と続くが、それらはみな既に紹介したものばかりだからここでは省く。ただ、「毎年五月五日になると、郷人はこの河で競渡をする。俗に屈原の霊を慰めるものだとされている」とあるが、これは供物泥棒の龍を追い払うものだとも、龍を刺激して雨を降らせるのが目的だともいうから、いわば雨乞い行事だともされている。
それが訛化して悪疫退散を祈る行事となったが、なんの効果もないところから、たびたび禁令が出たにも関わらず、一向に止まなかった。悪疫退散のお祈りなど効き目があるわけはないが、娯楽の少ない時代にこれらの行事は、大衆にとって楽しみの一つだったのだから、効目がないからといって禁止するのも大人気ないことで、そんなことは最初から分かっていたことだろう。それが禁止の対象となったのは、この競渡はときに死傷者まで出た、ということが影響しているのかも知れない。この屈原の生没年は不祥で、なかには実在しなかったという説もあるが、それも義経伝説や聖徳太子は実在しなかったという説と同じで、そのままでは受取れないものがある。
粽の始まりは米を撒いたもので、それが粽となったとか、屈原の姉が粽を作ったともいわれ、またはその姉が餅を河に投げたとか、泪羅の漁夫が米を撒いたとしている。屈原の霊を弔うためにそのようなことはあったろうと思うが、それが粽と繋がるのかどうか、粽の起源としては別な説があるのだから、そこに疑問がないではない。しかし、王族であり政界の重鎮でもあり、楚辞という詩の様式を創始した大詩人であるだけに、屈原を崇める民はたくさんいた筈だから、身内だけではなく一般人も共に供養したであろう、という推測もあながち的外れではなく、いまに至るも伝説や民族風習のなかに、屈原が生き続けている事実がそれを物語る。
『和漢三才図会』は『本草綱目啓蒙』を引用して、「是日切菖蒲漬酒飲之或加雄黄少許」【この日は菖蒲を酒に入れて飲む。または少量の硫黄を入れ】て飲むという。そうすることによって、「除一切悪」【いろいろな難を免れる】とあり、この記事は『五雑組』その他も同様である。また、日本の菖蒲湯は入浴するものだが、中国での菖蒲湯は酒に菖蒲、石菖を刻んで入れ、それを飲んだ。また、硫黄を入れて飲むというのは、それだけを聞くと何のためか分からない。そんなものを飲んで大丈夫なのかという疑問もあるが、『神仙伝』『列仙伝』などを読むと不老不死、長生きの法として水銀や丹砂、雲母、硫黄などを用いるという記述が頻繁に出てくるから、恐らくその延長線上のものだろう。
だいたい、硫黄は砒素が硫化したものだから、そんなものや水銀を飲んでも百害あって一利なしで、現に何人もの皇帝がそういうものを用い、かえって命を縮めている。日本の菖蒲湯に相当するものに蘭湯があり、この蘭とはフジバカマを意味し、蘭がないときは午の刻に取った五色の草を入れることは前記したが、『大戴礼』には【この日、蘭を取り、煮て沐浴すれば部兵を辟け除き、悪気を攘い、却けることができる】とある。薬湯に入るのは健康によいとしても、兵難除の咒だとか、邪気を払うことができるというところまでゆくと、もう眉唾ものというほかない。このへんになると文字通り民間の素朴な信仰、お咒だから、そう目に角立てることもないだろう。
次に『近世風俗志』を見てゆく。この本は喜田川守貞の著になるもので、一般的には『守貞漫稿』の名のほうが知られている。守貞自身は『守貞謾稿』と書き、また『類聚近世風俗志』ともいい、『嬉遊笑覧』と同じく、要するに江戸時代の百科事典のような本といえば分かりやすい。京、大阪、江戸の風俗全般について書いたもので、漢和辞典を見ると「謾」は「あざむく、いつわる」として①「あざむく、いつわる、だます」②「あなどる、けいべつする」③「おこたる、なまける」④「なれる」⑤「とりとめがない」とあるから、「漫」と「謾」ではその意味がずいぶん違う。この本について大失敗した。区立図書館を通じて国会図書館の古文献を閲覧、複写できることは知っていたが、やはり実物を確認してからでないと間違いがある。わざわざ国会図書館へ足を運び、調べた上で申し込んでも『甲子夜話』のような失敗をすることがあるから、下調べと原典の確認は必須のことになる。
だからそれまでは下調べをして、それから国会図書館へ行って実物を確かめ、そのうえで複写申し込みをしていたが、平成十五年の正月早々に家内が入院し、後を追うように私も心筋梗塞の発作を起し、別な病院へ担ぎ込まれてしまったから、下調べなどできる状態ではなくなってしまった。仕方がないから下調べ抜き、原典の確認を抜きにして区立図書館を通じ、国会図書館へ全文複写願いを提出したところ、『近世風俗志』の全文を複写したら八万ちょっとかかります、念のために伺うが、それでもよろしいかという返事が来た。泡を食って調べてみたら、『近世風俗志』は三十五巻からなる膨大なものだということが分かった。挿絵もふんだんに入っているから無理もない。結局、年間行事のところだけ、それでも二十六、二十七、二十八の三巻もあったが、その三巻の複写依頼をして落着した。手抜き、横着をしたら、ひどい目に合う見本のような話で、国会図書館が確認の連絡をしてくれたからいいようなものの、『近世風俗志』の複写だけで八万もかけたのでは、こちらの懐がもたない。複写したい本はいくらでもあるからだ。
『近世風俗志』に端午の関係は五項目ある。まず「五月五日ヲ端午ノ節ト云フ」とあり、「天平十九年五月詔シ、昔ハ端午ノ節ニハ菖蒲ヲモツテ縵トス。比来スデニコノ事ヲ停メタリ。今ヨリ後、菖蒲ノ縵ニアラヅバ宮中ニ入ルゝコトナカレ云々」とあり、これは『和漢三才図会』のところで紹介した、「天平十九年詔曰五月五日百官諸人須菖蒲鬘如不者不許入宮中」のことである。続けて「マタ延喜式ニ曰ク、五月五日天皇、騎射ナラビニ走馬ヲ観ソナハス。所司ハ御座ヲ武徳殿ニ設ケ、内外群官、皆菖蒲鬘ヲ著ス云々。今日菖蒲ヲ用フコトカクノゴトシ。マタ近世ノ印地打ハ騎射ノ遺意ナルベク、マタ藤森ノ宮等、今日ノ祭祀、走馬アリ」としている。
その二としては『燕京歳時記』『和漢三才図会』で触れた「菖蒲刀」で、これは「端午ノ飾刀ニテ、親族出生ノ男子等ニコレヲ送ル、木刀ナリ。金銀紙等デコレヲ飾ル」とあり、添えられた挿絵を見ると、その刀の先端が菱形に広がって独特の形になっている。注によると将軍家斉がこの形にしたので、巷間では「お召鐺」といい、「江戸御用達町人等、今ニ至リコレヲ用フル者アリ」としている。
その三の「飾兜」は蒙古襲来について述べられており、『和漢三才図会』と同じ記事で、こちらは「世事談曰ク」と出典を明記している。「五月甲ハ光仁帝、天応元年、蒙古ノ賊、本朝ニ来ル。早良親王ヲシテコレヲ討タシメタマフ。親王、藤ノ森ノ社ニ祈リテ出陣アリ、時ニ五月五日、タチマチニ神風吹キテ賊船、立所ニ敗走シ、戦ハズシテ勝ツコトヲ得タマフ。因ツテ五月五日ニ兵器ヲ飾ル。云々」とある。菖蒲の節句に旗や兜、武器を飾る所以はこんなところにあったわけだ。しかし、ここでも『和漢三才図会』と同じく、「光仁帝天応元年、蒙古ノ賊本朝ニ来ル」としているが、私などは蒙古襲来というと、歌にもある通り反射的に鎌倉時代の文永、弘安の役と考えてしまう。しかし、ここでいっている第四十九代光仁天皇の天応元年といえば西暦七百八十一年で、奈良から京都へ遷都する十三年前のことになる。そんなころにも蒙古襲来はあったのだろうか。普通、蒙古襲来といえば文永、弘安の役だから、第九十一代後宇多天皇のときの筈である。守貞もそこに疑問を感じたのか「イズレカ是ナル、識者ニ遇ヒテ訂正スベシ」といっている。ということは、この『世事談』は、何かほかのことと勘違いをしているのではないかと思われてくる。
『近世風俗志』はさらに「後宇多院ノ御宇、弘安二年五月五日ニ大元ノ蒙古来リシ時、鎌倉北条家ノ政務トシテ、天下ノ万民ニ旗ヲ建テサセ、ソノ備エトシテ今ノ世マデコノ風俗ヲ欠カサザルハ、ソノ時異敵ヲ退ケシ吉例ヲ伝エ遺スナリ。昔ノ時ノ事ニハアラズ云々」と、『前々太平記』を引用している。ということで『和漢三才図会』の寺島良安も前記の通り、「蓋其比蒙古襲来之事嘗不見乎国史恐謬説也」【だいたい、そのころに蒙古の襲来があったなど、どの歴史書にも出ていない。だからこれは恐らく間違った説だ】といい切っているから、『和漢三才図会』が引用したのもたぶん、『世事談』ではないだろうか。そして「間違った説」だから、『世事談』の書名は敢えて書かなかったものと思われる。
次に江戸の風俗を記述して、「今世飾幟、飾兜ノ市、総ジテ雛市ト同ジ。京師ハ四条、大阪ハ御堂ノ前、江戸ハ十軒店、尾張町、麹町ニテコレヲ売ル。江戸ハ四月二十五日ヨリ中店を構へ、マタ他賈ノ店ヲモ幟市トスルコト、雛市ト異ナルコトナシ。ケダシ三都トモ平日コノ類ヲ商フ店ハ、大略三月五、六日限リ雛ノ類ヲ蔵ニシ、明年ヲ待チテコレヲ売ル。三月六、七日ヨリ直ニ幟、兜等、五月物ヲ店ニ置キテコレヲ売ル」として、五月飾りとしての鎧兜を説明している。さらに続けて「今日ノ飾具足、オヨビソノ他武器、模造ノ諸物、総ジテ京阪ノ方、花美精製ヲ用フ家多ク、江戸粗製多シ。上巳、雛遊ビ調度ハコレニ反シ、京阪ハハナハダ粗ナリ」としてこの項を結んでいる。
その四は「粽並ニ柏餅」として「京阪ニテハ、男児生レテ初ノ端午ニハ、親族オヨビ知音ノ方ニ粽ヲ配リ、二年目ヨリハ柏餅ヲ贈ルコト、上巳ノ菱餅ト戴ノゴトシ。粽ハ葭ニ図ノゴトク新粉ヲ付ケ、ソノ表ヲ菰ノ葉ヲモツテ包ミ蒸ス」といい、フランクフルトソーセージに串を刺したような図が添えられている。それが粽なのか、あるいは柏餅なのか、その別は書いていないから分からない。そして「コノ粽ハ菰ヲ解去リ、砂糖ヲ付ケテ食スナリ」というから江戸、大阪のものは今の粽とはだいぶ違うことが分かる。
これに反して「京師、道喜ト云ヘル菓子工ニ製スル物ハ砂糖入、モツテ図ノゴトク、串ナシニ造リ、表ニ笹葉ヲ包ミ蒸ス。号シテ道喜粽ト云ヒ、大内ニモ調進ス。総ジテカクノゴトキヲ笹粽ト云フ」というから、京都のものは砂糖入ということはあるにせよ、その形は今の粽とほぼ同じものとなっている。そして「江戸ニテハ初年ヨリ柏餅ヲ贈ル。三都トモソノ製ハ米ノ粉ヲネリテ円形、扁平トナシ、二ツ折トナシテ、間ニ砂糖入赤豆餡ヲ挟ミ、柏葉大ナルハ一枚ヲ二ツ折ニシテコレヲ包ム。小ナルハ二枚ヲモツテ包ミ蒸ス。江戸ニテハ砂糖入味噌ヲモ、餡ニカヘ交ユルナリ。赤豆餡ニハ柏葉表ヲ出シ、味噌ニハ裡ヲ出シテ標トス」というから、柏の葉が表向きに包んであるか、裏向きに包んであるかによって、小豆餡と味噌餡の区別がつくようになっていた。最後の項は「清朝」というタイトルで「粽子ト云フ。一名角黍、カノ国ニモ今日コレヲ食スナリ。粽子ノ製、糯米ヲ灰汁ニ浸シ、蘆葉ヲモツテ三角ノゴトクニ包ミ、麻皮ニテコレヲ結ビ煮ル」といい、続けて街角でこどもが菖蒲を三つ編みにし「しゃがめ、しゃがめ」と連呼しながら練り歩き、しゃがまない子がいると、それで打つ菖蒲打という遊びを紹介し、「イヅレノ時ニカ、コレモ廃ス」いつの間にかその遊びも廃れてしまったとしている。
これを『事物紀原』「歳時風俗部」で見ると、五月五日は競渡、艾人、五綵、百索、線符、遣扇の六項目があり、「競渡」は「楚伝云起於越王勾践荊楚歳時記曰五月五日為屈原投泪羅人傷其死」【『楚伝』には越王の勾践に始まったとある。『荊楚歳時記』には五月五日に屈原が泪羅で投身自殺したので、その追悼のために始まった】という二説が紹介されているが、これが『五雑組』や『和漢三才図会』でいうところの、屈原にこじつけたということになるのだろう。
「艾人」では「荊楚歳時記曰端午日荊人皆蹋百草採艾為人懸於門上以禳毒気」【『荊楚歳時記』は端午に荊の人が野に出て百草を踏み、艾を取り、人の形に作ったものを門に飾って毒気を払う】とある。三番目の「五綵」は『風俗通』を引用し、「五月五日以五綵絲繋臂辟鬼及兵令人不病瘟」【五月五日は五色の絹を肘に懸けるという。これは鬼や兵難に会わないように、また、病気などにならないように】するためだといい、続けて「続斉諧記曰屈原五月五日投泪羅死楚人哀之毎至此日以竹筒貯米投水祭之」【『続斎諧記』に屈原が五月五日、泪羅で入水自殺とあるが、楚の人がこれを哀れみ、毎年この日に竹筒に米を入れ、水に投げて祀っていた】として区回の話を綴っている。
次の「百索」「線符」「遣扇」の項では、まず「百索」として「続漢書曰夏至陰気萌作恐物不成」【『続漢書』には夏至になると、陰の気が降りてきて作物が実らない】から、「以朱索連以桃印文施門戸故漢五月五日以朱索五色即為門戸飾以難止悪気」【そこで朱い綱を張り、桃印のお札を門に飾ると書いてある。だから漢の五月五日に五色の絹の綱を門に飾って悪い気を防ぐ】といい、さらに「今有百索即朱索之遺事也本以飾門戸而今人以約臂相承之誤也」【いまでいう百索とはこの朱索のことで、もともとは門に掛けるものなのに、今の人は肘に掛けたりして元のやり方を忘れている】ということだから、時代の変遷によって本来のやり方が、少しずつ誤用されていることになる。
「線符」も実体は百索と同じもので、別項を立てることもないと思うが「漢五月五日以五色印為門戸飾続漢書曰桃印者也」【五月五日に五色の綱を門に張るのは、『続漢書』でいっている桃印のことだ】といい、続けて「劉昭曰桃印本漢制今世端午以五綵線篆符以相問遺亦置戸帳屏之間蓋本於漢桃印之制」【劉昭がいうには、この桃印は漢の時代に始まったもので、いま端午に五色の絹や御符を贈答し合い、これを戸口や帳り、屏風に掛けておくのがそれで、これはもともと漢の制度だったのだ】とある。最後の「遣扇」は唐の太宗から始まったことで、唐は高祖の次が太宗だから二代目ということになる。その太宗が重臣の長孫無忌に、二本の扇を下賜したもので、序でにいえば団扇の発生は中国だが、扇は日本で作られ、当時の中国に逆輸入された。これについて当時のものが、倭人は便利なものを考えたものだと感心したという話がある。その扇を下賜したとき太宗は、「唐会要曰正観十八年五月五日太宗謂長孫無忌楊師道曰五日旧俗」【唐の『会要』に正観十八年五月五日、お上が長孫無忌にいわれるには、これは楊師道にも出ているが、昔から五月の慣わしなのだ】といったという。
「則知端午之以扇相遣自唐太宗始也」【これによっても分かるように端午に扇を賜るのは、唐の太宗から始まった】という。これが前記『燕京歳時記』にちらっと出てきた「画扇の下賜」のことだろう。ただ、『事物紀原』でいっている年号の「正観」は、「貞観」ではないかと思われる。この「貞観」という年号は日本にもあるが、中国では高祖の武徳九年六月に二代目の太宗が即位し、年号が「貞観」と改められ、唐の時代はもとより、その前や後の時代にも「正観」という年号はないからだ。例の則天武后が「才人」として宮中に上がって七年目、その後「昭儀」となり、さらに則天武后となる十一年前のことである。
この本で粽は「酒醴飲食部」にある。この「醴」は甘酒のことだが、一口に甘酒といってもいまでいう甘酒でないことはいうまでもなく、一夜で醸す甘い酒を指す。なんだ、結局は同じじゃないかと半畳を入れられそうだが、そこに記載されている粽は「糉、一名角黍」とし、屈原に始まるという起源と、その作り方を記したあと、「異苑曰糉屈原姉所作」【『異苑』で、粽は屈原の姉が作ったものだとしている】としめ括っている。いずれにしてもここまでずっと見てきたように、同じ端午の節句といっても、日本と中国ではその性格が全く異なり、中国では多くの行事や故事来歴があっても、日本のように男の子のお祝いという雰囲気ではなく、いろいろな風習や行事があり、いい伝えがあるとしても薬草を取ったり、家内安全を願ったりするという色合いが濃い。国情の違いといってしまえばそれまでだが、やはり端午の節句はこどものお祝いとして武具を飾ったり、鯉幟りを上げたりするほうがふさわしく、風薫る初夏の陽気に陰惨な話はあまり似つかわしくない。
何ごとも時代とともに変わってゆくものだが、それにつけてもここで思い出されるのは、季語の本意である。物事も事柄もみな時代とともにその意味が拡散し、誤用され、変遷してゆくことを考えれば、本意を守ることがどこまで正しいことなのか、疑問に思うことがある。だからこそ本意を守るのが大事なんだと、たちまち袋叩きにされるのは目に見えているが、ではいま現在、木槿や桔梗その他を指してこれは朝顔だよ、花とは梅のことだよといってみたところで、「かつては」あるいは「もともとは」という前置詞なしにいくら強弁しても通用しまい。つまり、私が疑問としているのは、本意とはいうものの永久不変ではなく、時の波に流され、否応なく変質してしまうものだということである。その方程式でゆけば、いま現在は誤りとされている「四温晴」「三寒」「釣瓶落し」「眠る山」「笑う山」などは、誤っているとする派と、意に介さない派の数が逆転し、構わないという派が数で圧倒したら、どちらが正しいかという議論と別の次元で本意は置去りにされ、忘れ去られる運命にある。誤用であるとする派としては「かつては」「もともとは」という条件をつける以外、抵抗する術はないのではないだろうか。
それは価値観の多様化によって、権威者の求心力が衰退している現状と軌を一にするもので、その多様化した価値観をすべてよしとするものではないが、そのように変化しつつある現実を、頭から無視することはもはや出来ない。私は有季定型派であるけれども、時の流れにともなう変化をいつ、どこまで肯定するか、判断の規準に迷うことが多々ある。基本的には季語のいい換えは駄目とする派だが、たとえば「山眠る」という一般論を、俳句実作者として「眠る山」としたい、「眠る山」として山そのものを鮮明にしたい、というケースまで否定するか、否定できるものかどうか、そのようなケースもあり得るという、理論上の問題まで無碍に否定できないだろう。そこで重視されるのは作者としての問題意識の有無と、作者の意志の問題に帰着するのではないだろうか。
本意を大事にしなければならないことはいうまでもないが、さりとて本意がすべてであるというだけでは、この問題の解決にはなり得ないだろう。この論旨がおかしいという人には、それでは今でも花は梅ですか、木槿や桔梗、その他の一日花はいまも朝顔ですか、夜の秋は秋ですかと反問したい。人それぞれに主義主張があり、その目指すところも当然ながら百人百様だから、原理原則に照らして正邪の答えは出せるとしても、それですべてが割り切れると考えたら、それも早計というものだろう。問題は原理と応用の兼ね合いともいえるから、歌の文句ではないが「悩みは果てなし」である。