2011年10月23日日曜日

俳枕 江戸から東京へ(42)

亀戸界隈/普門院
文 : 山尾かづひろ 

普門院









都区次(とくじ): 亀戸天神の東隣にある普門院へ行ってみましょう。それでは由来から話してもらえますか。
江戸璃(えどり): 元々は現在の隅田川・白鬚橋あたりの三股という場所に戦国時代の城があって、大永2年(1522)その城中に創建されたのよ。この亀戸には関ヶ原以後の元和2年(1616)に移ってきたのよ。
都区次:そのお顔は、何か面白い話がありそうですね?
江戸璃: そうなのよ!その亀戸に移るときに舟が揺れたのか、何かあって、鐘を川に落しちゃったのよ。当時のことだから引き揚げなんか出来ないわよね。話題になっちゃって、あの辺を「鐘ヶ淵」と呼ぶようになったのよ。今でも「鐘ヶ淵」という東武伊勢崎線の駅があるわよ。
都区次:普門院には、伊藤左千夫の墓があることで有名ですね。伊藤左千夫は歌人で、正岡子規に師事し、のちに短歌雑誌『馬酔木(あしび)』『アララギ』を刊行したことで知られています。
都区次:伊藤左千夫の墓は空襲に遭ったのか相当に痛んでいます。墓の文字は特徴のあるものですね。
江戸璃:この文字は、洋画家で書家でもあった中村不折の手によるものなのよ。中村不折は当初、子規と関係のあった人だったのよ。子規は東大を中退して叔父・加藤恒忠の友人の陸羯南(くがかつなん)の経営する新聞「日本」に記者として入社したのよ。ところがこの新聞「日本」は政治新聞でね、上司も子規の使い方が分らず、仕方なく種がないときに政治面の二面に「獺祭書屋俳話」という俳論を自由に書かせたのよ。そうしたらこれが馬鹿受けしてね、子規は社内で頭角を現して、系列の家庭向けの新聞「小日本」の編集を任されたのよ。家庭向けだから挿絵などもあってね、子規は挿絵の注文を通して洋画家中村不折と運命的な出会いをしたわけよ。
都区次:当初、子規は日本画崇拝者だったと聞いたことがありますが。
江戸璃:ところがビックリ、子規は不折と語るうちに、不折の説くスケッチ描法に俳句作法との一致を見て、洋画家の写生を俳句に応用した新局面を拓くことになったのよ。台東区根岸の不折の旧居宅は台東区立「書道博物館」になっているわよ。その向いは「子規庵」なのよ。
伊藤左千夫の墓












一と文字を毀たれし墓冴返る  長屋璃子(ながやるりこ)
みどりの日左千夫の墓に一花かな  山尾かづひろ