2012年2月26日日曜日

尾鷲歳時記(57)

海について
内山思考

やどかりや公案ひとつずつ抱いて 思考

春雨の尾鷲港











海のすぐ近くに住んでいても、海を意識することはほとんど無い。釣りでも好きなら接点もあろうが、僕はもっぱら、魚は食べる物として認識している。漁業が盛んで、交通や運搬も海路に依存していた時代の尾鷲は、町そのものが海を向いていたと言える。しかし陸路が発達し、一次産業が斜陽化すると町は海に背を向けてしまったのだ。 市外の浦々もそれまでは一村ごと独立して賑わっていたが、車社会になるとどこも、交通の便の悪い僻地になってしまった。過疎化が進むのも無理は無い。

東日本大震災から一年が経とうとしている。あの日、僕は山の中の炭焼窯にいた。いい天気なので気持ちよく作業していると、遠くで急にサイレンが鳴り始め、しかも、それが間を置かず鳴り続ける。「何や、あれは?」 M君に聞くが、彼はその日新しい仕事を親方にまかされて、そちらに神経を奪われている様子の生返事。桑名の姉から電話が入った。「そっちは大丈夫?」「何が?」「何って、知らないの?地震で津波が凄いの、もう車が…兎に角大変なの、早くテレビ見なさい」 

だが、山にはテレビもラジオも無い。「Kさんよお、地震かなんかあったのか?」少し離れた隣りの窯のKさんを呼ぶと、ケータイのサイトを開き「ああ、東北で地震があって7メートルの津波が…ええっ」と絶句した。 僕はそれを聞いた時、誤報だと思った。まさか7メートルなんて有り得ない、大災害は歴史的頻度でしか発生しないはずで、こんな長閑な日常に起きるわけがないと。
地震の句が書かれている
ホトトギス

しかし、それは根拠の無い錯覚に過ぎなかったのだ。昭和19年12月7日尾鷲沖20キロメートルを震源とする大地震があり(昭和東南海地震)尾鷲に6~7メートルの津波が押し寄せた。被害は甚大であったが、戦時中であったため報道は最小限に抑えられ、災害地の人々にも箝口令が敷かれたと言われる。手元に昭和20年のホトトギス4月号があるが、その背表紙に「冬雨や小屋立てゝゐる津波跡」の俳句がペンで書かれている。多分、この本の元の持ち主Mさんが当時書いたものと思われる。