2012年5月13日日曜日

尾鷲歳時記(68)

母の無い子の日曜日
内山思考


学校と塾の間に枇杷が熟れ  思考 

太地小学校卒業の日に、
担任の先生が踊ってくれた
「真珠採りのタンゴ」
は忘れられない














「時には母の無い子のように」 カルメン・マキが無表情に気だるそうにこの唄を歌っていたのは、確か僕が中学一年か二年の頃だった。当時、和歌山県の太地町にいたので、今でも「時には…」を聞いたり口ずさんだりすると、中学校の教室の風景、それも休み時間のざわめきがオーバーラップするのである。何故その場面なのかはよくわからない。

歌と情景に関して言えば、ペギー葉山の「南国土佐を後にして」だともっと昔で、実家のある十津川の夏祭りか何かの屋台の賑わいが思い出される。虫歯が痛くて駄々をこねているとき繰り返し流れていて、お蔭で今でも、イントロから歌ってみろと言われれば歌えるほどである。

他にもザ・ピーナッツの「情熱の花」は小学一、二年時に住んでいた町の映画舘の夕暮れ、など、大抵の懐メロは僕の頭の中で特定のシーンとセットになっている。話を戻して、今年も「母の日」が来たけれど、「時には」でも「のように」でもなく、本当に母の無い子になってしまった僕は、生まれて初めて赤いカーネーションに縁がなくなった。子供の頃、お母さんのいない子は、それだけでも辛いのになぜ、皆のように赤いカーネーションが買えないのかと心を痛めた記憶があるが、この風習はアメリカの一女性が亡き母を偲んで白いカーネーションを配ったのが起源だと長じて知り、やっと納得したのだった。

赤い花ばかり強調される現在の方がどちらかと言えば本末転倒なのである。まあ、僕の母はあまり草花に興味を示さない人だったから、赤でも白でも多分頓着しないだろうが。太地町と言えば先日、久しぶりに妻と一緒に行って来た。彼女には見知らぬ町だが、僕にとっては小学五年から中学二年までを過ごした懐かしい場所である。


太地に行くと必ず買って来る
クジラ食品
最初の夏、小学校全員(だったかな)が口開けという磯開(びら)きに出かけ、その時僕は初めて海で泳いだのだった。何度潜っても浮力のせいでお尻が浮いてきて皆に笑われたものである。あの頃の母はよく笑いよく働いた。そしてその息子は来年、還暦を迎える。