2012年7月29日日曜日

寺井谷子 全句講評講座記録

※当全句講評講座は平成23年9月10日に開催された。以下は「現代俳句協会HPの講座・句会」で掲載されていたものを転載した。


          主催:現代俳句協会主催
          共催:宮崎県現代俳句協会
          協力:宮崎俳句研究会
          於:宮崎市 ホテルプラザ宮崎

1 水門はアパートの秋の光を健かに  福富健男

ああそうだったのかと聞いてすぐ分かるのはよくないが、水門がアパートとどう関わるのか分かりにくかった。言葉どおり「水門はアパート」と読んでいいのだろうか。何か分かりそうな気もしてくる。伝わってくるイメージはよいと思う。

2 羽抜鶏餌やる婆に懸想せり  中村しげし

すごくよく分かる。俳人とは「羽抜鶏」が好きなものである。塩たれて見えるけれども凛として手強いという感じである。「懸想せり」という言葉から、放し飼いされた鶏の動きが見えてくるようである。人間像を重ねる必要はないが、おばあさんの様子なども健康的でかくしゃくとして見えてくる。うまく書けている。

3 風連れて二動二輪の妻の夏  小島静螂

ハイカラな車を持っているということではない。手足のことか、猫車か?バイクのことかもしれない。夏ばての作者にたいして妻はさっそうとしているのである。愛妻俳句。

4 萎みても一花の威厳朝な草  吉原波路

朝顔のことでしょうか。俳句教室で困ることがある。これ季語ですと出されてきても何のことか分からないことがあります。たとえば、「花の兄」という季語など。「梅なら梅とお書きよ。」などとも思う。音を合わせるときに使ったりすることもあるでしょう。古い言葉、難しい言葉を俳句に取り込むのは悪いことではありませんが、あまり、考えないままに傍題から引っ張ってくるようなことは賛成しません。この句、「萎んでいるけどきれいだ」のように因果関係が読み取れてしまう。この書き方はあまり成功しません。

5 喘ぎつつ息つぐ地球八重葎  井上英子

よく分かります。これは3月11日の前からのことです。CO2や温暖化というよりは、亜熱帯化というような問題がこの数年のゲリラ豪雨、先日の水害などで一気に身に迫ってきました。「八重葎」ですが、古風というだけでなく、こんがらがった様やイラクサで覆われた地球の様子など見えて他の季語は考えられないとも思われるが、喘いでいるのは今なのよという季語を欲を出して読み手が求めたほうがいい。その句を否定するのではなく、読み手の責任として、座や連衆の意味と一緒に考えていただきたい。

6 瓦礫と言う懐かしい思いの堆積  高尾日出夫

破調を否定しません。深い悲しみはリズムを奪うかもしれませんから。そのときに出てきた句というのは五七五のリズムをまとってないかもしれません。この句の破調も棒のように心に深く沈んでいきます。

7 ふる里の闇の深さや木の葉木莬  日高美千代

九州で一番闇が深いのは宮崎でしょう。北九州から九州新幹線を経て、宮崎行きの在来線に乗り換えてきましたが、南宮崎駅(宮崎駅へ一駅)の手前くらいまでは緑が多かった。そして、緑を残しながら急に真っ白気の街の風景となった。周辺の緑の濃さがただならないものであったことに気がつきました。

夫恋へば吾に死ねよと青葉木莬  橋本多佳子 の一句があります。私の父、横山白虹、西東三鬼と多佳子は遊び友達でした。彼女が50代になった頃のことですが、書もよくされて、あるとき、「青葉木莬」の句を書かれたときに誤って「木の葉木莬」としてしまったというエピソードがあります。そこに意図せず年齢が出てきたというわけです。「青葉木莬」だと夫に先立たれた若い嫁がイメージされるが、一方、「木の葉木莬」年を重ねた夫婦の感じがする。季語というのはそこまで想像させるものなのかと思います。季節を表現するだけの言葉ではなく、季語をもって、俳句は象徴詩となり、さらに二重構造、三重構造を持ちうるのです。
 京大俳句事件で検挙された渡辺白泉の句に「憲兵の前で滑って転んぢゃった」がありますが、自分が書いている五七五をもっと影響力の強いものと思っていたらレジスタン的な書き方もあったと思うのですが、彼はマークされないと思っていたのでしょうか。想像力というのは武器になるんです。

8 育ち居り実の生る日除すくすくと  伊藤あき子

もっとも分かりやすい句でした。糸瓜?ゴウヤ?私もマンションの高階で育てていますが、受粉しにくいようで小さいのが少し生りました。

9 晩年へ一足飛びの黒日傘  森山淳子

黒の使い方がよい。一時、黒日傘が流行ったことがありました。あぶなっかしい影が出てくる。本人の実感、自覚です。黒だから晩年と思うのはつまらない読みの感覚です。

10 勿忘草木っ端微塵の車です  大浦フサ子

大震災、津波の被害のことだろうかと読者が足し算をして呼んでゆく。木っ端微塵ということを受けとめるには、勿忘草では可憐すぎる。一気に直接的な感情、気持を持ってこないこと。天文、時候などの季語ではどうでしょう。

11 帰省子のユーターン真水持たせけり  愛下千鶴

このままでよろしいです。要らないという所はありません。単なる水ではなく真水に心をこめての思いがあります。

12 精霊舟いつしか生者も岸を離れ  森 賜代

せつない句。中七から破調になっているが、一音多いところが切なさを訴えてくる。この句の場合ですと、下五も五音だと情感が乏しくなるということがあるかもしれません。

13 ここいらにあったはずだが甚平が  妹尾題弘

いいですねえ、この楽しさ。発句というものを格高く言い留めるというより、歌仙を巻いていくときの転換のおもしろさとか、そういった特質が出ているような感じがいたします。

14 蛇穴を出て口数が多くなる  長友 巌

このままでたいへんよろしい。ダブルイメージがありますね。

15 旧姓で署名をするや夏木立  末吉道子

状況がよく分かりません。旧姓に戻るとか言いますよね。離婚届のときなんかに旧姓で署名したりするのでしょうか…。いずれにしても、「夏木立」なので、それほど鬱陶しい話ではないのでしょう。

16 浮き釣の浮き野赤色秋暑し  川口正博

「赤色」は「せきしょく」と読みました。暑苦しそうな感じです。赤色が秋の暑さを現してよく効いている。

17 チョキ出して憂気裁ちきれば夏の空  山野智江

「憂気」は「うき」と読むのでしょうか。イメージはよく分かるのですが「裁ちきれば」の「きれば」は不要です。「チョキ出して空を切ったら夏が来た」

18 爆音の東に消えて盆終る  中村義郎

爆音は飛行機の音でしょうか?帰省子が帰っていく様子かもしれませんね。

19 油蝉の腹とにらめっこする蛙  踏田 拓

落蝉と蛙の様子でしょうか。

20 陽の欠片瓦礫のままや座禅草  永田タヱ子

書きたい方向は分かります。陽が差しているので瓦礫が凸凹になっているということでしょう。ただ、座禅草で無残さが消えてしまったような気がする。

21 雨しとど紫陽花顎を持て余す  竹内千恵子

雨も降り紫陽花の毬が大きく、そして頭が重くなったということですね。

22 五感さえ解らぬ原発五月闇  倉田玲子

「さえ」が分かりません。ここでは使はないほうがいいかもしれません。目にも見えない、感じることもできない、どこか空気が違うということを表現されたかったのでしょう。「原発」、「五月闇」はこのままでよいです。

23 かなぶんぶん税の重さに手の怒る  海蔵由喜子

「手の怒る」が分かりにくいですが、何にでもしがみつく、かなぶんぶんのあの手を引き剥がすのは難しい、そのかなぶんぶんが人間の代わりに怒ってくれているということでしょうか。

24 猛暑列島人体気泡化ゆれている  黒木 俊

「猛暑列島」の後で切って読めばよいと思いますがどこで切るのだろうか…と思いました。

25 満月は生きてる兎餅をつくべし  後藤ふみよ

どこで切って読むかでいろいろに読める句です。兎よ、満月のなかで餅を搗きなさいとも読めるでしょうが、「兎」の後に一拍置くのはあまりおもしろくない。むしろ、「兎餅」を「つくべし」と読むとおもしろいと思います。

26 サングラスはずせば潮の匂ひ濃き  清水睦子

このままでよくわかります。サングラスの持っている隔絶する力から放たれて、真っ青な海が突然作者を包んだということでしょう。本来、サングラスは視覚を遮るものなのに、この句では中七以降が臭覚にとってかわっている。もちろん、サングラスをはずしたら、よく見えるでは詩にはなりませんが…。下にひねりを入れて違うものを持ってくるというのはよく使われる手法ですが、うまくいくと、人間の五感をふいに弾けさせられるけれども、失敗すれば、クサイというか、アザトイというか、狙いが見えてきてしまう。空振りというわけです。作者が読者を手玉に取れるかどうかは、球筋が見えてこないところを攻められるかというところです。この句、悪い句ではないが球筋が見える。

27 コクリコ坂は酷暑映画のはしごする  疋田恵美子

「コクリコ坂」、ジブ映画でありましたね。映画の中の「コクリコ坂」が酷暑なのか、それとも、実際にコクリコ坂というのがあって、そこが酷暑ということなのでしょうか。映画のはしごよくやりました。名画座なんかでは何本もやってましたけど、この句の場合は一本づつのはしごですね。「ロシア映画見てきて冬の人参太し(古沢太穂)」の句がありますが、このとき、初めて「映画」という言葉が大手を振って俳句の素材として使われるようになりました。かつて、白虹が参加した医学部関係者の句会で「眼鏡」は俳句の素材にならないと言われたことがあったらしいが、それらの俳句にならないという素材を次々と山口誓子がこわしていった。たとえば、「機関車」「溶鉱炉」などで、現代社会のものを俳句に読み込んでいきました。歳時記というのは稲作中心のもので、歳時記を読めば農家の一年間の暮らしが分かるんです。一方、都市生活者の暮らしが詠みこまれて「丸善」、「洋書」、「葉巻」などといった言葉が新しく使われた時代もありました。つまり、新しい時代の、新しい生活者としての詩が生まれてくるには、現代の生活の中の言葉を取り込むという貪欲さも必要というわけなんです。私も「ATM」を俳句にするとき、銀行にいったいどういう意味なのかと尋ねにいったこともあります。また、山口県出身の童謡詩人、金子みすヾの「みすヾ忌」を季語にしようと動いたこともあります。今では「金子みすヾ顕彰俳句大会」というのが行われています。いろんな素材で俳句を書くという貪欲さがあってよいと思います。

28 泉湧くごと幼児の言葉増え  霊元(よしもと)和枝

きれいな句です。孫のことだろうと思います。うれしくてしようがないおじいさんとおばあさんでしょう。

29 甌穴をすべて消したり秋出水  鈴木康之

甌穴から「秋出水」の流れでは答えが出てくるという感じがいたしますので、ここらへんの書き方というのを考えられるとよいと思います。

30 岡本太郎守宮の足の健康的  宇田蓋男

ガラス越しに見るぺたっとくっついた守宮の足が白くてきれいだなという感じが先ずしました。そうすると岡本太郎がじゃまな感じがしてきます。この句で岡本太郎を活かしきるには、どうかして、岡本太郎と守宮を結びつけるとよいのでは…。たとえば、「岡本太郎的守宮の足の健康」などとするわけです。そうすると岡本太郎が生きてきませんか?

読み手にゆだねる、後は読み取ってくださいという書き方をするとそこに作者の意図との誤差が生じてくる。自分の作品ならば、どう読まれたいのかということも考えて、しかし、それはそのまま出さずに自分の意図に近いところで止める。いわゆる「寸止め」、そういうことも大切です。

31 氏素性自明自白や木下闇  岩切雅人

自明と自白…ここは自明だけでも通じるのではと思います。「木下闇」も読者としては多少こんがらがってくる感じがいたします。

32 母縮み潮騒果てなく病窓に  吉村 豊

家庭では療養させられないので、よんどころなく母をゆだねる病院。その、母が入院している病院の状況が潮騒の窓を通してばあーっと広がって見えてくる。けっこうでした。

33 人の世のくるくる回るコンバイン  服部修一

この人の世「に」という意味合いでしょう。小回りのきくコンバイン…よくがんばってくれているなということと思います。

34 一人居の灯のとどく厨さるすべり  阿辺一葉

読みにくく読んでいるわけではないですが、読みにくいです。たとえば、「さるすべり」を頭に持ってくる。また、「一人の灯」とすれば一人居のことなんです。一句のなかで何が自分にとって一番大事なのか?そういうことを考えてみるとよいと思います。「一人の灯」でじゅうぶん伝わってきます。私はよく言うんです。俳句を書くときは嘘をついてくださいと。正直な俳句ほど退屈なものはありません。雨が降っていなくとも、雨を降らせてみてください。書きたいと思ったことの感動の元、そこを俳句にしようとするとき、そこにウソを入れて一句を構築してみるのです。近松門左衛門がこういったことを言っています。虚実と現実の相中に醍醐味があるというようなことを。一番ほんとうっぽいウソを書いてみるのです。この句、静かでいい句です。「さるすべり」もとてもいいです。

35 パンプスのヒールの減りや秋暑し  殿所すみ子

歩き遍路の遍路杖はほんとうに減るの?と尋ねたことがあります。杖の先がささくれてほんとうに減るそうです。そして、この句のパンプス、何が何でも「パンプス」でなければという、働く女性の遍路杖のようなものではと読みました。

36 コントラバスに抱かれる女穴惑い  遠目塚信子

似たような句がありそうにも思いますが、女の人がコントラバスを弾いている様子をこのように表現したおもしろさがあります。屋内の風景と屋外のものが一緒になっていて、「穴惑い」はまずいのでは?

37 ジョーカーの巡れば湿る青葉かな  進藤三千代

屋外でトランプ?という感じがしましたが、「巡れば湿る」という辺り、現代俳句的なものがあります。

38 錯乱を始める手紙夏の雲  仁田脇一石

手紙が錯乱する?書いていることがどんどん辻褄が合わなくなっていくのだろうか。そこまでは想像ができます。そして呆然としている作者なのでしょうか。また、かつて手紙をもらい、二通目、三通目と、そして今日来た手紙というように少しづつ手紙が錯乱していくという状況も考えられます。



(記録:進藤三千代)