2013年3月31日日曜日

俳枕 江戸から東京へ(117)

山手線・日暮里(その16)
根岸(上根岸82番地の家②「子規庵」)
文:山尾かづひろ  挿絵:矢野さとし

子規庵














都区次(とくじ):明治27年2月に子規は上根岸88番地から82番地に転居していますが、何か訳があったのですか?
江戸璃(えどり): 最初の88番地の家の金井姓の家主の老婦人が小むつかしい人で子規も困り果てて悲鳴を上げちゃったのね。丁度そのとき近くに貸家が出てきたので、少々家賃が高かったけれど、月給が上がったので借りることにしたのよ。
都区次:その月給の上がったというのは何かあったのですか?

 花万朶編集長となりし子規  畑中あや子

江戸璃:子規の勤めた新聞『日本』は政論中心の「大新聞(おおしんぶん)」でね、論調が激しくてしきりに停止を喰らうので、代用紙を用意しておこうということになって、当時、「小新聞(こしんぶん)」には家庭向けとするような品の良いものが無かったのでそれをやろう、ということになって、別会社を作って新聞『日本』から編集長を出すということになったのだけれど、「モサ」ばかりで適当な人間がいなくて、若いけれど子規を充てたわけ、明治27年1月に新聞『小日本』が創刊され、子規は編集長として月給も上がったので、高い家賃の82番地の家(子規庵)に転居したわけ。
都区次: この当時、「大新聞」「小新聞」などという区分けがあったのですか?
江戸璃: あったのよ。ちゃんと広辞苑にも出てるわよ。見てちょうだい。
都区次: ところでこの82番地の家(子規庵)の大屋さんは誰だったのですか?
江戸璃: ここの土地は加賀前田家の地内でね、子規庵はその広い地内の北西隅にあったのよ。建物そのものは明治初年、本郷加賀屋敷が東京大学に接収されたとき移築した家臣の家数十軒の一軒だったのよ。子規には店子としての状況を詠んだ「加賀様を大家に持って梅の花」などという俳句があるわよ。

東京大学














鳥帰る「路地の俳人」思ひけり 長屋璃子(ながやるりこ)
春塵や路地の入りくむ上根岸  山尾かづひろ