小林 夏冬
七夕
いまでは商魂と結びついて、盛大な七夕が各地で行われている。私が七夕といってまず思い出すのは仙台の七夕で、それに次ぐものとしては平塚の七夕である。このごろはどこも七夕が盛んになって、六月の末ともなると、各地の商店街は規模の大小を問わず、七夕関連の飾りをしないところはないし、幼稚園、小学校などは夏の定例行事となっている。しかし、同じ七夕行事でも、日本と中国ではその内容に大きな違いがある。
七夕の起源は西アジアだといわれているが、中国ではこの夜、牽牛と織女の二星が相対する天の川に、鵲が羽を延ばして橋とし、織女がその橋を渡って牽牛に会うという伝説と、中国宮廷の節会として行われていた乞巧奠が習合され、七夕となる。この鵲について『塵袋』は、「カサゝギト云フハミノ毛ノ頭ニアル鷺カ」として、「鵲ハ尾キハメテナガク、ハシミジカクシテ水辺ニハスマズ、山木ニスム。一名ニハ飛駁ト云ヘリ。アマノ河ノカサゝギ橋ト云フモ是也、マツタク白鷺ノタグヒニ非ズ。烏鵲、橋ツラネテ浪往来スナド申シ、アヤマツテクロキ物ニコソ云ヒナラハシタレ」とあるが、これは鳥の項だから鵲という鳥についての解説で、鵲の橋はほんの付け足し、特別に七夕と関連づけているものではない。
乞巧奠とは五節句の一つで、庭に筵を敷いて供え物をし、竹に五色の短冊を飾って牽牛、織女を祭り、女やこどもが裁縫や書道を始めとして、諸芸の上達を願う。宋の高承著『事物紀原』は、「乞巧」として呉均の『続斎諧記』を引用している。その内容は「桂陽成武丁有仙道忽謂其弟曰七月七日織女当渡河暫詣牽牛至今云織女嫁牽牛」【桂陽に成武丁という道士がいて、あるとき弟に向かい、七月七日に織女が天の川を渡って牽牛に詣でるといった。それがいまでは織女が牽牛に嫁入りするという話になった】とあり、その翌日に成武丁は弟の前から姿が消えたという。
これだけでは話が尻切れとんぼでちょっと分かりにくい。それは『事物紀原』が引用するに際して省略したからで、その省かれた部分は「織女が天の川を渡る際、仙人はみな天宮に帰る決まりがある。だからおまえとはこれで三年ばかりの間、お別れだ」といったということで、これは端折ったというより、分かりきったことは改めていうまでもないということかも知れない。何ものにも拘束されない筈の仙人にも、そんなしがらみがあったとすれば、まことにつまらない決まりがあったものだが、『事物紀原』はさらに周処の『風土記』を引用し、「七夕洒掃於庭施几筵設酒果於河鼓織女云二星神会乞富寿及子」【七夕に庭を清掃して筵を敷き、席を設けて酒や乾肉、果物などを供え、彦星と織女の二神に富か長寿か子か、そのうちの一つだけ】を願うことが出来るとしている。
次に『歳時記』も引用しているが、それは「七夕婦人以綵縷穿七孔針陳瓜花以乞巧則七夕之乞巧自成武丁始也」【七夕に女は五色の糸を七孔の針に通し、瓜や花を供えて諸芸の上達を祈る。これを乞巧といい、成武丁から始まった】とあるが、織女に随行した武丁という道士から始まったというだけで、この乞巧奠が成立した経過は書いてないから、なんで男である武丁が婦女子の願い事に関与するのか、そこがちょっと唐突で分からない。成武丁は道士ではあっても、諸芸に通達した神というわけでもないようだから、天神さまの菅原道真とは少しわけが違うだろうと思う。この話は『五雑組』にも出ているが、いずれも成武丁から乞巧奠が始まったとしていることに変わりはない。
しかし、それが成立した経過についてはどの文献も触れていない。また「綵縷穿七孔針」は、この記述だけではどういう針か分からないが、これについては別項を立てて次のように解説している。「西京雑記曰漢采女常以七月七日夜穿七孔針於開襟楼今七夕望月穿針以綵縷過者為得巧之候其事蓋始於漢」【『西京雑記』によれば漢の宮殿のお針子は七夕の夜、開襟楼で七孔の針に五色の糸を通す。七夕の月にかざして通すのだが、糸がうまく針の孔を通れば裁縫が上手になるといわれており、この行事は漢の御代に始まった】とあり、文献によっては開襟楼を穿針楼としているものもある。ただ、「七孔の針」とはどんな針なのか、一本の針に七つの穴が開けられているようなニュアンスだが、そこまで詳しいことはどの文献も書いていないから、どういう針なのかということは分からない。
これが『燕京歳時記』になると、著者が満州貴族の出で、漢民族ではないから少し趣が変わってくる。「丟針」というタイトルで、つまりは針占いだが、そのやり方は「七月七日以碗水暴日下各投小針浮之水面」【七月七日にお碗へ水を入れ、日向にしばらく置いてから小さな針を水面に浮かべる】そして「徐視水底日影或散如花動如雲細如綫捔椎」【静かに水の底に映った影を見ると、散る花のように見えたり、流れる雲のように見えたり、細く見えたり、太く見えたりする】が、その見え方によって「因以卜女之巧拙俗謂之丟針児」【その女が器用か不器用かを占う。これを丟針児という】とある。それに続く項目は「鵲填橋」【鵲が橋を架ける】というもので、「七月七日清晨鳥鴉喜鵲飛鳴較遅俗謂之填橋去」【七月七日の朝は鳥や鴉、鵲の飛び始めるのが少し遅い。それは鵲が天の川に橋を架けにゆくからだ】としており、同じ中国の文献でも、それを書いた人の出自によってこのような違いが出てくる。
『玉燭宝典』にも七夕の記事があって「按世王伝曰竇后少少頭禿不為家人所歯七月七日夜人皆看織女独不許后出」【『世王伝』に、竇皇后がまだ小さかったころ頭が禿げていたため、家の者は誰も相手にしなかった。それで七夕にはみな織女に願い事をするのだが、竇だけはそれも許されず、ひとりで部屋に閉じ籠っていた】ところ、「有光照室為后之瑞」【突然、竇の部屋に光が差した。それは彼女が皇后になる瑞兆だった】という。竇は成長したのち、瑞兆が現実のものとなって皇后となるのだが、それは後の話である。
この七夕の願いのやり方は、「其夜洒掃於庭露施机筵設酒脯時果散香粉於筵上熒」【その夜は庭を掃き清め、筵を敷いて机を置き、酒や乾肉、果物などを供えて香を焚く】のが七夕の舞台装置というわけで、どの文献もだいたい同じ記述になっている。そういうものを設けた上で「此二星神守夜者咸懐私願」【牽牛さま、織女さま、どうぞお出ましになってください、お願いがございます】と祈る。そうすると「見天漢中有奕奕正白気如地河之波瀁而輝輝有光耀五色以此為徴応」【天の川に白い気が現れて川面が波立ったように輝き、五色に光る。これは牽牛、織女の二神が願いに応じて姿を現されたしるし】だから、お願いをするものは三拝九拝して申し上げる。
「便拝而願乞富乞寿無子乞子」【伏し拝んでお金持ちになれますようにとか、長生き出来ますようにとか、後継ぎがないものは、子種が授かりますようにとお願いする】ところが世の中には、自分さえよければ後はどうでも構わないという業突張りが多いから、神さまのほうも規制の網をかぶせることを忘れない。「唯得乞一不得兼求」【お願いできるのは一つだけ、あれもこれもというのは許さない】ということになる。その代りというわけでもないが、お願いされた織女、牽牛のほうも、日本の神さまのように「善処する」「前向きに検討する」という程度の無責任な対応はせず、願いは三年以内に実現させると公約する。「見者三年頗有受其祚者」【三年でその願いは必ず叶い、霊験あらかたである】というが、三つの願いのうち、一つしか叶えられないという話は中国に限らず、また古今東西を問わず定番ともいうべき話で、これも部分的な小異はあっても、『荊楚歳時記』を始め各種の文献にある。だいたい、中国文化も西から東漸したことを考えれば、そこに『千一夜物語』の尻尾のようなものが、ちらちら見え隠れしてくるのは仕方のないことだろう。
織女には七つの異名がある。それは七夕の七姫といい、秋去姫、朝顔姫、薫姫、糸織姫、蜘蛛姫、梶葉姫、百子姫というが、別な説もあって朝顔姫、梶葉姫、秋天姫、琴寄姫、灯姫、糸織姫、蜘蛛姫ともいう。それに対して牽牛にこのような異名はない。この異名のうち、ほかのものはとにかく、蜘蛛姫はちょっと奇異な感じもするが、これは後で出てくるように織女は木の実、草の実、糸や綿、宝玉などを司どるとされ、七夕に欠かせない供え物の一つに瓜がある。その瓜と蜘蛛を容器に入れて蓋をし、翌朝それを開いて蜘蛛が巣を張っていれば技芸が上達する。張った蜘蛛の巣網が細かいものであればあるほど上達が早く、荒いものはそれなりにしか上達しないとされるところから、蜘蛛姫という異名になった。
『荊楚歳時記』には筏に米を積んで天の川を下るという幻想的な話や、牽牛が天帝から借金する話などもある。牽牛が織女を嫁にもらう時、支度金の二万両を天帝から借りた。ところがその金が返せなくなって、天の営室に閉じこめられてしまった。サラ金から安易に借りては自己破産する、無責任な輩が多いのは現代の世相だが、どうもその方程式は今も昔も、天上の世界でも変わらないということだろうか。『史記』「天官書」や『漢書』「天文志」の一節には、「織女天孫也」【織女は天帝の孫娘】としてあるから、結納金、あるいは結婚資金を相手のおじいちゃんから借りたことになる。相手のおじいちゃんから借りるほうも厚かましいが、いくらかわいい孫娘のためとはいえ、貸すほうも貸すほうではないかといいたくなる。そのくらいなら結婚式の費用くらい、おじいちゃんが出してやればよかろう。
天帝も意外に財布の紐は固かったということだが、中国では天帝に限らず、お話に登場してくる神さま、仏さまは人間以上にセコイところがある。日本のお話では考えられないが、それも国民性の違いから来るものだろう。牽牛が借りた金を返せないで、独房に入れられたというに至っては婿さんも厚かましいが、天帝も婿さんに負けず劣らずしみったれている。計算高い天帝にとっていかにかわいい婿どのとはいえ、借りた金を返さない牽牛に、堪忍袋の緒が切れたのかも知れない。そんな可愛げのない婿どのでは独房へぶち込まれても文句はいえないが、この話は国会図書館で複写した二種類の『荊楚歳時記』の、どちらにも欠落しており、『和漢三才図会』にも載っていない話だから、この部分だけは平凡社東洋文庫、守屋美都雄ほか訳『荊楚歳時記』から摘記した。そんなわけでここも原文は分かるが引用は略する。
天帝もなかなかやるもので、まことにおかしい。中国の笑話にはこれに類する話がざらにあって、誇り高い古代中国人士も一つ裏を返せば、煮ても焼いても食えないものがぞろぞろ登場してくる。そんなところは日本人の直情径行ぶりといささか異にするところで、懐の深さというか、清濁併せ呑む度量の広さかも知れない。中国人の大陸的な側面は、日本人の太刀打ちできるところではないが、ただ、それはよくいえばということで、逆な視点から見ればだらしがないということだから、私は中国人のそういうところは嫌いである。その清濁併せ呑む濁の部分が中国笑話で、中国笑話集も後漢のころ、邯鄲淳の『笑林』から始まって隋、唐、宋を経て、明の時代に最盛期を迎えた。そして清朝の『笑倒』『笑得好』『笑林広記』などに繋がってゆき、換骨奪胎して落語の種になっている。中国笑話のなかにはほろ苦く、しょっぱいけちんぼうの話が多く、そういうものを読んでいるとおかしくて、やがて悲しい物語という感懐に囚われてくる。
それはさておき、七夕といえば天の川から話を起こさなければならないだろう。寺島良安『和漢三才図会』第二巻「天文の部」に、「天河」「河鼓」「織女」の三項目があり、「天河」では天の川の別名として雲漢、銀潢、銀河、河漢、銀灣、銀浦などを挙げ、和名を万葉仮名で「阿萬乃加八」として各種の文献を引用している。まず『博物志』だが、「天河与海通浮槎木賚一年粮至一処婦人織丈夫牽牛渚頭飲之此人問何処丈夫曰可謂蜀厳君平問之」【天の川は海に通じているという。ある人が筏に一年分の米を積んで天の川を下ってゆくと、ある所で女が機織りをしており、男が渚で牛に水を飲ませていた。そこで、ここはなんという土地かと聞くと男は、蜀の厳君平に聞けといった】ということで、岸に上がることは許されなかったという。米を積んだ筏で天の川をゆくなどという話は、いかにも大陸的な発想で面白い話である。
その厳君平は町の易者だが、この易者は只者ではない。ふだんは成都の市場で屋台を出し、易者をしているが、一日の米代を稼ぐとさっさと店を仕舞い、家へ帰って本を読んでいるという一風変わった易者で、皇帝が礼を厚くして招いても、頑として宮仕えなどしない。当然、諸国にその名が響いている賢者、大物である。そういう人に聞いたら分かるというわけで、のちにこの人が厳君平に聞くと、「某年月客星犯牛斗正是此人到天河時也」【ある年のある月に、客星が牛斗に入りこんでいた。あれはきみが天の川を下って、女と若者に会っていたのか】となる。それに続けて新古今集の、「あまの川通ふ浮木に事とハん紅葉の橋はちるやちらずや 実方」の一首を挙げている。
『和漢三才図会』は続けて、「正法念経云帝釈与脩羅戦時帝釈所乗馬吐気其気連天云是天河也」【『正法念経』には帝釈天が修羅と戦ったとき、帝釈天の乗った馬が荒々しく息を吐き、その気息が天に連なった。これが天の川である】としている。こうなると、もうイメージの世界でしかないが、それにしても人をして畏怖させるに足る壮大な世界である。そして「楊泉物理論云漠水精也気発而升精華浮上宛転随流名曰天河」【楊泉は『物理論』で天の川は水の精だとしている。気が発して昇り、エキスとなって流れているが、それが天の川なのだ】といっている。さらに『天経或問』を引用して、「望遠鏡窺之天河実是小星之隠而不見者然微而甚多群聚一帯蓋因天体通明映徹受諸星之光并合為一真白練焉」【望遠鏡で見ると、天の川は目に見えないほどの小さな星が集り、微かではあるが一面に、無数に広がっている。天体は透き通っているから、お互いに反射し合って映り、たくさんの星の光で白い練絹のように見える】として良安のコメントに移る。天の川というものは「△称河而非水非気本此天四象之一物体」【河というが水ではなく、気でもなく、もともと天の四象を構成する物体の一つ】なのだといい、さらに天の川について天文学的な説明をしたあと、「毎無有形象之異可知非精気也」【その形はいつになっても変わらないから水の精、あるいは気ではないことが分かる】として次のように結論づける。
「博物志之言虚也正法念経之説妄也物理論之弁憶見也或問之論是而亦未詳審故以愚案評異説耳」【『博物志』の説は嘘八百だし、『正法念経』は出鱈目で、『物理論』は証拠を挙げない推測に過ぎない。また『天経或問』もまだ詳しく解明したものとはいえない。そこで自分の考えを基に批評した】と、ばさばさ切り捨てる。各種の論説を真っ向から否定するだけあって、天文学を踏まえて実際に観測もしたであろうと思われる、寺島良安の自信の程が垣間見える文章である。
もっとも古代天文学は、いまのわれわれの想像以上に発達していたもので、これも洋の東西を問わない。中国では紀元前二千七百年に黄帝が甲子紀暦を作り、同二千四百年ころの堯帝に至って、一年を三百六十六日とし、十二カ月を以って一年とし、三年ごとに閏年を設け、四季を補正したことは各種天文の文献に見える。暦を作るためには、天体の運行を観測することが不可欠だから、紀元前三千年ころにはある程度、天文学が進んでいたことになる。遣唐使は七世紀の初めだから、堯帝から数えても三千年以上経過している。暦はもうほぼ完全なものとなって、それが遣唐使を通じて日本に齎されたが、江戸中期はそれからさらに千年近く経過している。従って一般大衆はいざ知らず、寺島良安クラスの知識人にとって、この程度は常識の範囲内だったろうと思われる。
それはそのあと「河漢北極星見界」「河漢南極星見界」の天文図二枚を掲げ、その後に続く説明文がそのことを証明している。これは七夕と直接の関係はないので原文を略すが、【天の川は東で箕と尾の方角の間に始まり、南道と北道に分かれる。南道は伝説を過ぎて魚淵を通り、籥を過ぎて弁、河鼓に至る。北道は亀宿を経て箕を貫通し、斗魁、胃、左旗の脇を通り、南道と天津のほとりで合流する。南道、北道の二つは合流して南へ行くが、瓠瓜を挟み、杵のほとりで人星に絡む。造父、騰蛇を過ぎて王良、附路を経由して閣道で平らになり、さらに大陵を登り、天船に浮き、巻舌に至って南へゆく。五車を経由して北河の南で東井、水位に入り、吾驂、水位を過ぎて東南に漂う。そこから南河を通って闕丘、天狗、天紀に向かい、天稷、七星と南で合流し、そこで天の川は消える】と、天の川が横たわる位置を示している。夏の夜空を見上げながら、そんなあれこれを考えてみるのも一興だろう。
次に「彦星」は河鼓、別名を黄姑、三武、天関といい、和名は比古星、以怒加比星としている。この星については「明大光潤則吉動揺差度乱兵起直則将有功曲則将失律」【明るく、大きく見えて潤んだ光ならば吉、揺れ動いて度にずれがあると兵乱が起きる。光が真直ぐなら将は戦功を立てるが、光が曲がっていれば軍律が乱れる】とする。そういうものを読んでいると、戦陣にあって各国の武将はこのように星を占い、自身の運命をも占って、国家の経営にいそしんだのかと思うと、そぞろ惻隠の情に駆られるものがある。次の「織女」は収陰ともいい、和名は太奈八太豆女というが、「天女也主果蓏糸綿宝玉也王者至孝神祇咸喜則織女星倶明天下和平」、【天女である。木の実や草の実、糸や綿、宝玉を司どる。王者が孝を尽くせば神々が喜び、織女星も明るくなって天下泰平となる】といい、「大星怒角布帛貴又曰三星倶明女功善暗而微天下女功廃」【この星に怒角があれば布は高くなる。三つの星がみな明るいと女はよく家を治める。これが暗くて微かだと、天下の女は横暴になって家が廃れる】し、「不見兵起」【この星が見えないと兵乱が起きる】と穏やかでないご託宣が続く。
そんなことをいったら日本の七夕は梅雨のころだから、星の見えない年のほうが多い。見えなければ女権ばかり拡大し、毎年のように戦争が起きることになってしまう。どうしてくれるといいたいところだが、黄河中流域あたりは梅雨などないのだろう。また、陰暦と太陽暦の差もあるから、太陽暦に換算すると九月末から十月初めころということで、要らざる心配をすることもないようだ。良安はさらに『倭名抄』を引用する。「河鼓為牽牛為彦星彦者男子之称対織女付会之号而巳」【河鼓のことを牽牛といい、彦星という。彦とは男子の意味で、織女と対称するためにこじつけた】として、「牽牛者本牛星之異名也此星以有牽牛之度分終為其名者謬也加之拠牽牛之訓河鼓引牛在渚頭之説可笑」【牽牛とは牛星の異名で、この星が牽牛の領域にあるからその名になったというのがそもそもの間違いで、牽牛と読むからといって、渚で水を飲ませるなどというのがおかしいのだ】と切り捨てる。総じてまことに小気味よい論旨で、そのぶんロマンの香りは失せる。だが、それも致し方ないことだろう。
ここまでが天の川と牽牛、織女で、行事としての七夕はここからということになる。中国の七夕は後漢に始まったとされるが、日本における七夕の文献は『公事根源』が嗃矢で、「孝謙天皇の天平勝宝七年に乞巧奠が始まった」というから西暦七五五年、唐王朝の中期で、遣唐使盛んなりしころ日本に伝わったということになる。後漢の成立は西暦二十五年だから、中国で七夕が始まってから約七百年後に日本へ伝わったことになる。当然、遣唐使によって中国の文物とともに七夕、乞巧奠の風習や考え方が日本に伝えられたが、このころの中国の時代相としては安禄山が玄宗に反旗を翻し、蒙塵の玄宗皇帝が涙をのんで楊貴妃を縊り、楊貴妃の従兄として宰相だった楊国忠が、部下によってそれまでの横暴ぶりを清算させられ、斬殺された事件があったころ日本に渡ってきたということになる。いずれにしても後漢のころから行われていた七夕が、いつごろ乞巧奠と習合したのかは分からない。日本では東大寺大仏開眼の三年後、京都平安宮へ遷都する三十九年まえ、その天平勝宝七年にはもう七夕伝説と、乞巧奠は結びついていたことになる。
ここまでは『和漢三才図会』第二巻、「天文の部」に書かれているが、七夕となると第四巻「時候の部」になる。七夕に「しつせき」とルビを振った上で、「七月七日祭河鼓織女二星謂之乞巧奠」【七月七日に河鼓、織女の二星を祭り、これを乞巧奠という】が、「荊楚歳時記云」【『荊楚歳時記』によれば】として、「二星為夫妻隔天河宿七月七日夜適織女渡天河逢牽牛」【この二つの星は夫と妻で、ふだんは天の川を隔てて住んでいるが、七月七日の夜は織女が天の川を渡って牽牛に会う】という。しかし、天の川に橋はないので、「淮南子云烏鵲塡河而渡織女」【『淮南子』によれば、鵲が集ってその羽で河を埋め、織女を渡らせる】のだという。『和漢三才図会』は続けて「七月六日雨為洒涙雨同七日雨為洗車雨」【七月六日の雨を洒涙雨といい、七日の雨を洗車雨という】とある。
洒涙雨は分かるとしても、七日の洗車雨は説明がないから、なんで洗車雨というのか分からない。六日のお出かけに雨が降って、七日に車を洗うのかも知れないと思っていたら、平成十五年七月四日、ぼんやりと眺めていた読売新聞朝刊、「編集手帳」ではこれが逆になっていた。この日の編集手帳は四歳の幼稚園児が誘拐され、殺されたことに対する怒りと悲しみを述べ、このごろの殺人事件が頻発する世相について、洒涙雨を引いて嘆いた文章の前半に、「七夕は雨とも縁が深い。陰暦七月六日に降る雨を、昔の人は『洗車雨』と名づけた。織女と会うために、牽牛は乗っていく牛車を洗う。その水が雨となって地上に降るという。◆翌七日の雨が『洒涙雨』(涙をそそぐ雨)で、再会した二人の惜別の涙に見立てている(後略)」と書いている。
私はこの記事を以って、読売新聞編集手帳は誤りだといっているのではない。それどころか読売新聞の編集手帳に引用された、織女と会うため六日に車を洗い、七日の別れの涙雨というほうが時系列からいって説得力があるから、『和漢三才図会』の説よりも読売新聞のほうが正しいのではないかと思うが、異説がある場合、どちらが正しいか断定するには、たいへんな検証作業を必要とするし、ついに断定できないこともある。他の問題についても異説のあるケースは多いが、古文献でもその多くは異説を異説として紹介しているだけで、どちらが正しいとはいえない、として逃げている場合が多く、それも当然だろうという気がしてくる。そして『和漢三才図会』はさらに続く。「凡年中所以嘉祝在正三五七九奇月而用朔三五七九奇日俗謂之五節句」【一年のうちでお祝いするのは正月、三月、五月、七月、九月の奇数月のうち、朔日、三日、五日、七日、九日の奇数日で、これを俗に五節句という】とある。
だから「七月七日亦其一也俗奪二星之事似忘其本也」【七月七日もその一つだ。それなのに世間では二つの星のほうに気をとられ、五節句の一つだということを忘れている】といって、奇数月の奇数日ということからいえば、十一月十一日も節句の一つと思うかも知れないが、「亦雖然九老陽故九月九日而止不用十一月十一日」【そう考えるのも分かるけれど、九は老陽で留めとなるから、十一月十一日は節句にならない】という。つまり、中国の思想で九は陽の極わまるところ、その先はないということだから、当然のことながら十一月十一日は切捨てられ、六節句にはならないのだとして七夕の項を結んでいる。
要するに一月一日は歳旦の節句、三月三日は上巳の節句、五月五日は端午の節句、七月七日は七夕の節句、九月九日は菊の節句、その伝でゆけば十一月十一日も入って六節句となる筈だが、中国の考え方では九を老陽といい、陽がそこで極わまるため、あとは打切りとなって十一月十一日の節句はない。陽とは一、三、五、七、九の奇数をいい、その陽が九でどんづまりになるので老陽という。もうそこでおしまいという意味だから、そこで十一は切捨てられ、五節句ということになる。和時計の時刻が九ツから始まるのも、理由はそのへんにあるのではないかと思うが、別にそれを文献によって確かめたわけではないから、こうなのだと断言は出来ない。なお、それにつけ加えれば老陽に対して老陰がある。
『五雑組』第二巻「天部」にも、七夕関連の三項目の記事があり、そこに「牛女之事始於斎諧記成武丁妄言成」【牽牛と織女の話は『続斎諧記』にある成武丁の与太話から始まった】として、「於博物志乗槎之浪説千載之下婦人女子伝為口実可也文人墨客乃習為常語使上天列宿横被汚衊亦不可怪之甚耶」【その話は『博物志』の筏に乗るという俗説に端を発した。
女、こどもがそういう話をするのはまだ許せるとしても、文人墨客たるものまでがそういうことをいって、天上の星々を冒涜するのはまことに怪しからん】と憤慨している。いやしくも文人墨客たるものは通俗を排し、孤高の精神を保てというわけだろう。それに続く次の記事は『長恨歌』を引用している。「玄宗避暑驪山以七月七日与楊妃凭肩誓心願世為夫婦」【玄宗が驪山に避暑した七月七日、楊貴妃と寄り添って心願を立て、三世を誓った】として、『開元天宝遺事』も引用する。「帝与貴妃毎至七月七日夜華清宮遊宴宮女皆陳瓜果乞巧皆誤也」【玄宗皇帝と楊貴妃は毎年七月七日の夜、華清宮で宴会を催し、宮廷の女たちも瓜や果物を供え、諸芸の上達を願ったというが、そんな話はみな嘘だ】という。その話が間違いだということは、各種の史書が証明しているといい、「考之史玄宗華清宮皆以十月其返皆以二月四月未有過夏者」【これを史書で見ると、玄宗皇帝が華清宮に行幸したのは十月のことだし、長安へ帰ったのは二月か四月のことで、華清宮で夏を過ごしたことはない】としている。
その上で、「野史之不足信往往如此」【野史が信用できないのは、往々にしてこの程度のものだからだ】と手厳しい。しかし、謝肇淛に野史とこき下ろされた『開元天宝遺事』は、もともと玄宗治下の開元、天宝年間(七一三―七五五)の民間伝承を記録したもので、民間伝説には潤色が加えられるのは仕方ない。この『開元天宝遺事』は、日本図書センターの刊行になる『漢籍解題』でも雑書に分類され、これを収めている『守山閣叢書』も「史部」ではなく「子部」、いわば雑書の扱いになっている。ただ、雑書に分類されているといっても、どうでもよいという雑ではなく、系統立てて分類するとその他に入るという意味だから、どう贔屓目に見ても史書とはいえないし、野史の範疇にも入らないだろうという素朴な疑問はある。いずれにしても、そういう民間伝承を、たとえ野史といういい方であっても、史書に準ずるほうがおかしいと思うのだが、そこまでいってしまうと、これもいい過ぎになるかも知れない。
玄宗皇帝も果断にして明晰、名君であったが、君主であること久しくしているうち、政治に飽きて凡庸以下の暗君となった。玄宗の場合は陰に楊貴妃がいて、次第に闘鶏など下世話なものに興味を持つようになって、当然の結果として雲の上の存在となり、民情を顧みなくなった。まこと妖艶にして愁色を含む後宮の美女は、公権力を陰から操れるだけに、その存在そのものが既に恐ろしい。玄宗の関係では「桃花扇」と並び称される戯曲に「長生殿」があり、そこにも長恨歌を援用した玄宗と、楊貴妃の七夕の一節がある。その荒筋は「牽牛と織女が出会う夜、玄宗と楊貴妃は長生殿で肩を寄せあって語り、天に登っては比翼の鳥となり、地にあっては連理の枝になろうと約束し、天長地久、時が尽きるとも、この誓いは綿々として絶えることはないとした。それを見た天上の織女は、二人のあまりの真剣さに打たれ、この誓いを永久に守らせてやろうと考えた」というものである。
後日、玄宗は蒙塵、つまり安禄山の反乱のため、首都長安を棄てて逃げることになる。この蒙塵とは要するに天子の都落ちを指す。だから崩御などと同じ系統に属する言葉で、天子以外のものが都を棄てて逃げても、それはあくまでも都落ちであって、蒙塵とはいわない。その蒙塵の途中、舞台は馬嵬坡の駅に移って楊貴妃と、そして楊貴妃の従兄というだけの縁で、宰相にまで上り詰めた楊国忠は、いよいよ最後のときを迎える。無能で酷薄な権力家だった楊国忠は、怒り狂った部下たちに斬殺され、楊貴妃は縊り殺されるのだが、この楊貴妃は解語の花といわれた。私はずっと解語の花とは山海経に出てくる人面花だと思っていたが、解語の花とは広辞苑によれば、「人間の言葉を解する花の意、美人の称。初め楊貴妃を指していった」とあって、初めて自分の勘違いを思い知らされたものだ。考えて見れば楊貴妃も、それから何千年後の日本においてまで語り継がれ、広辞苑に美人としての名を成したのだから、たとえその末路は扼殺されたとしても本望であったろうし、以って瞑すべしというものだろう。
序でにいえば人面花とは『山海経』に出てくる大食国の花で、これは寺島良安が『三才図会』から『和漢三才図会』へ転載している。「大食国には人面花という花があり、人の顔のような花を咲かせる。この花は人の言葉は理解できず、話しかけてもただ笑うだけで、あまり笑いすぎると凋んで落ちてしまう」とある。この話が出てくる『山海経』は、経とはいうもののお経の本ではなく地理書で、ただ、古代の地理書であるだけに、そこに書かれていることは地理の概念からはほど遠く、外夷人物の項ともなると怪異やろくろ首、胸がない穿胸人、腹がない無腹人、人面魚身の氐人、一臂といって一目一手一足しかないから、二人が一組にならないと歩けない、などというものがぞろぞろ出てくる。
もう一つ、中国の皇族は血を忌む習慣があり、これには例外があって皇族でも処刑されるときや、後継争いなどで斬殺されることはある。しかし平時に帝から死を賜るときは、白い帯や毒薬を渡されるのが通例で、白い帯を渡された皇族は縊死、つまり首を吊ることになり、薬の場合は服毒自殺ということになる。自殺を拒否した皇族は絞殺され、体に傷をつけて血を流すことはないから、斬殺は特異なケースとなる。また、日本の喪服は黒だが昔の中国や韓国の喪服は白だった。中国のものが日本に伝わっているケースがほとんどだから、昔は日本の喪服も白だった。テレビの時代劇を見ていると武士階級では男女、こどもを問わず死装束に白を着ているのはそのためで、それがいつの間にか白と黒が逆転してしまった。これは結婚式のとき、お色直しで新婦が嫁入り先の家風に合わせ、どのような色にも変えられますという意味から白を着る。そういう習慣から白はめでたいものと変わってしまったのかも知れない。現在の中国や韓国ではどうなっているか知らないが、日本でも地方によっては明治時代まで喪服は白、祝い着は黒だったところがあったという。
またしてもだいぶ脇道に逸れた。話を長生殿に戻すと、史書と違って長恨歌は満都の紅涙を絞らせるのが目的だから、皇族が血を流すのはタブーだったということは別として、そのほかは史実に忠実といい難いものになるのは当然で、華清宮での玄宗と楊貴妃の話は、大甘の純愛物語になるのは止むを得ない。日本でいえば金色夜叉や不如帰などと同じで、史書とは書かれた目的が違うからだ。
『五雑組』の七夕関連最後の記事は『歳時記事』を引用した「化生」で、これは日本に伝わらなかったのか、あるいは日本にも伝わっていて私だけが知らなかったのか分からないが、「七夕俗以蝋作嬰児浮水中以為婦人宜子之祥謂之化生」【七夕に蝋で赤ん坊を作って水に浮かべる。こどもが欲しい女のためのお呪いで、これを化生という】とある。そして「王建詩水拍銀盤弄化生是也」【王建の詩に出てくる「水は銀盤を打って化生を弄す」とあるのがそれだ】という。ここでは原文の通りにしたが、出だしの「王建詩」は謝肇淛の勘違いで、この詩は王建のものではないという説がある。間違いや勘違いは誰にでもあることだから、これはもう仕方ないだろう。この化生の記事には続きがあって、「今人以泥塑嬰児或銀範者知為化生而不知七夕之戯」【今の人は粘土で作った赤ん坊や、鋳型に銀を流して人の形にしたものを化生というのは知っているが、それが七夕の風習だということは知らない】として化生の項を締括っている。この子宝に恵まれるためのお呪いも、日本に伝わったのかどうか知らないが、あるいは「浮いてこい」という玩具は、こんなところに淵源があるのかも知れない。調べたら分かることだが、ここでは通過する。
次の文献は『夢粱録』で、これも四、五種類の異本がある。私が複写してもらったのは『学海類編』という叢書に収められたもので、それには「七夕」と題して「七月七日謂之七夕節」【七月七日を七夕節という】とあり、「其日晩晡時傾城児童女子不問貧富皆著新衣」【その夜に女やこどもは、貧富の別なく新しい着物を着る】が、なかでも「富貴之家于高楼危榭安排筵会以賞節序」【金持ちの家では高楼に宴席を設け、七夕節を祝】い、「又于広庭中設香案及酒果遂令女郎望月瞻斗列拝次乞于女牛」【または庭に祭壇を設けて香を焚き、酒や果物を供え、女たちに空を仰いで拝礼させ、乞巧占いをさせる】という。
そのやり方は「或取小蜘蛛以金銀小盒児盛之次早観其網絲円正名曰得巧」【蜘蛛を捕まえ、小さな容器に入れて蓋をする。次の朝これを見て、蜘蛛が巣を張り、巣の網が丸く、正しい形になっていたら習い事が上達する】という。このへんは他の文献と同じだが、世間一般の風習では「又于数日前以紅雛鶏果食時新果子互相贈送」【七夕の数日前から焼き鳥やパン、季節の果物などを贈答し合い】宮中では「亦以鵲橋仙故事先以水密木瓜進入」【鵲の橋に纏わる故事によって、水密桃や木瓜を供える】一方、「市井児童手執新荷葉効摩睺羅之状」【町のこどもたちは、蓮の葉を持って摩睺羅の真似をする】といい、「此東都流伝至今不知出何文記也」【これは東都に伝わって今に至っているが、どの文献に出ているのかは知らない】といっている。
日本の文献では高井蘭山著『訓蒙天地弁』「天の巻」に、「天漢」として七夕の項目がある。この本はタイトルにある通り、愚蒙の輩に天地の問題を弁じる、つまり、質問するものに答えてゆくという問答形式になっていて、和本、和文だからそのまま引用するが、これは漢字混じりの片仮名書きと違って誰でもすらすら読めるというものではないし、パソコンでそのまま入力できる字でもない。変体仮名を常用している例の、蚯蚓ののたくったような文章だから、その道の専門家は別として、それ以外のものは何度も読み返さないと、とても読めたものではない。しかし、習うより慣れろの格言通りで、それが活字だろうと筆字だろうと、字画には一定の法則があるから、何度も繰返して読んでゆくとそこは門前の小僧、習わぬ経を読むということになる。で、現代文とするに当って旧字と当字の一部は当用漢字とし、変体仮名は平仮名に直し、句読点を施してから改めて読むということになる。
その『訓蒙天地弁』「七夕」は竹を立て、それにいろいろな願い事を書いた短冊をつけている女、こどもの絵があり、「荊楚歳時記に二星の雲気と出たり、日本にては孝謙帝、天平勝宝七年、乞巧奠はじまるなり」という賛がついている。
本文は「問て云く天河の諸説区々にして、或は天の精気とし又は水気、天に発昇して其精、天河になると云ふ。又牽牛、織女の二星、七月七夕銀漢を渉りて会す。此夜に雨降る時は漢河の水、増溢して渡ること叶はずと唐土代々の詩人は是を賦し、我が朝の哥仙にも是を詠ぜり」と前置きをした上で、「牽牛星は河鼓星を云ふと、此理いかん」という問いに対して、「答へて云く史記、天官書に漢者は金の散気と出、物理論に星は元気の英、漢は水の精なりと。然るに暦家は微星の多く隠れて集帯せるものとす。甚、微にして甚、多く、箕斗の間より帯のごとく天より纏ひ、諸星の光耀をうけて、下地より見れば一練の白布のごとく光り、以て河あるがごとしとて天河の名ありといふ。天河は十月、南に転じて隠れ、二月より転じて巡る光によりて夏、秋に天河を見、冬、春の見へざる時は地の下に隠る。天の高く巡りてかの合星国といへる方にては転じて見ゆる理なり。此の国にて夜、天漢を見ざる時は昼の天に天漢出る理なれ。其の向日なれば見へざるなり。又織女の事、神道の書に諸説あれども、乞巧奠の佳節にて二星、天に会するといふことは、武丁が付会の説より起る所にして婦女信じて実とす。是詩客歌人、詠物することはあへて其の理の可否に拘らず、よつて来ること久し。紀貫之の哥に、
誠かと見れども見へぬ七夕は
空になき名の立てるなるべし
或は云く二星、下地に降会して芋畑、大角畑に会すとして畑に入ることを禁ず。笑ふべきの甚しきなり。予、艸髪の比、七夕の佳節、戯作に娘の字を得たり」ということで、高井蘭山がまだ前髪立ちの少年のころ、七夕に作ったという漢詩一篇を掲げている。曰く、
漢河如帯天作章
かんが、おびのごとくてんにあやをなす
雲是低而空又昂
くもはこれひくく、そらはまたたかし
聞道二星悼細雨
きくならく、じせい、さいうをいたむを
嘗言佳会遊芋傍
かつていうかかい、うぼうにあそぶと
陰晴咸其雲下事
いんせい、みなそれくものしたのこと
田畠豈何為此房
でんはたあに、なんぞこれがためにねやならん
烏鵲梯橋幾万
うじゃくていきょう、ろういくまん
悉皆都信少年娘
しっかいすべてしょうねん、ろうをしんず
というもので、六句目末尾の「房」とは閨房をいう。だいぶまえにドリフターズの加藤茶が歌って流行した「誰かさんと誰かさんが麦畑」の江戸版というところで、七夕の夜は牽牛、織女の二星が地上に降り、芋畑やささげ畑で密会するから畑に入ってはいけない、などというのはお笑い草だとしているが、引用文のうち前段は中国の文献を簡略化したもので、特別にこれはという新味のある記事ではない。
次に江戸時代の随筆を見てゆくと、江戸中期の歌人で国学者でもあった村田春海の著、『織錦斎随筆』に、「七夕といふ文字を、たなばたとよみ習へる」と題する一文がある。この村田春海の墓は江東区の、清澄庭園の入口と道を隔てた隣の寺、名はちょっと忘れたが、そこにある。この織錦斎は村田春海のペンネームで、その人が書いた随筆だから、この『織錦斎随筆』を常識的に読むと「しょっきんさいずいひつ」となる。しかし、その読みで古書目録を探しても、絶対にこの本は出てこない。なぜかというと、これの正しい読みは「にしごりのやのあるじのずいひつ」ということで、このへんになると歌舞伎やお芝居の外題と同じ、ちょっと特殊な読み方になる。
井上頼圀校訂、佐藤寛編集となっており、そこには後からつけたことがはっきり分かる、無数の朱が入っている。一頁二十字十行、つまり二百字詰原稿用紙ふうに線の入った専用の用紙に、毛筆で書いてあるのだが、一頁に平均して四十箇所くらい、無意味な句読点が打ってあり、あとは平仮名を漢字に直したり、変体仮名を直したもので、だいたい、お師匠さんがその人の発表する前の文章を直すならまだしも、関係のない人が他人の文章を勝手に直すのは言語道断というものだろう。私もこの本で引用した文章に句読点を打ったり、当字を直したりしているが、これは本とするに当たって現代の人にも読めるように、最小限の手を加えるということだから、江戸時代の文章を当時の人が手直しすることとは、おのずから意味が違ってくる。
そのうえ私が見ても、その九九%は無意味な朱だから、何をやっているのだ、この人は、というのが正直な感想で、小さな親切大きなお世話という言葉を地でいっている。著者の村田春海がこれを見たら、余計なことをするなと怒り出すだろう。この朱は誰が入れたものか分からないが、ここでは朱を無視して原文のままとし、正字は当用漢字に、変体仮名は現代の仮名にした。原文に朱を入れるのとは違うし、引用する場合に当字はともかく変体仮名といわれる、「みみずののたくった」ような字はパソコンでは出てこないし、仮に変体仮名が出たとしても、それでは誰も読めないから、このあたりまでは今のわれわれが読むに際し、止むを得ないことだろうと思う。
「七夕の文字をたなばたとよむ事ハ中頃よりの事にて、転じ来れる詞なり」【七夕と書いて「たなばた」と読むのは中世以降のことで、これは転訛した読み方なのだ】といい、そのうえで「たなばた」の語源に言及する。「これハ七夕の事を、其はじめハ棚機のあふ日、棚ばたのあふ夜といひたるを、それを略して棚機の日、棚ばたの夜とのみいへるを、また略して棚ばたとのみいふ事とハなりたるより、七夕の文字を棚ばたとよむ事とはなれるなり」【七夕を最初は棚機の会う日、棚機の会う夜といっていたのに、それを略して棚機の日、棚ばたの夜というようになり、さらにそれを略して棚ばたとしかいわないようになってしまったうえに、「七夕」という字を「たなばた」と、意読するようになってしまった】と続く。
そして「たなばたのあふ日を略して、たなばたの日といへる事ハ栄花物語、初花の巻に見えたり。今、歌の題に七夕雲、七夕雨などあるを、たなばたの雲、たなばたの雨とよみ来れるハ誤りにハあらざるなり」【棚機の会う日のことを、棚ばたの日と略した例は『栄花物語』「初花の巻」にある。そして歌の題に七夕雲、七夕雨とあるものを、「たなばたの雲」「たなばたの雨」と読むのは誤りではない】が、「たヾ歌の詞にたなばたとあるを、七夕とかく事ハ、七夕のことをたなばたといふよりうつりたる誤なり」【歌に出てくる詞として「たなばた」と書いてあるものに、七夕という漢字を当てるのは、七日の夕べのことを「たなばた」といったところからくる間違いだ】という。そのわけは「七夕の文字をたなばたとよむことはりハあれど、織女のことをさして七夕というべきよしなければなり」【七夕という文字を「たなばた」と読むのは道理だが、織女を指して「たなばた」と読む理由はない】と続く。このへんまで来るとだんだんややこしくなってくるから、よく気を落ち着けて考えないと、微妙なことばの綾を見失ってしまう。
そこで村田春海は、具体的に例を挙げて説明している。「七夕の文字をたなばたとよむ事ハ、飛鳥をあすか、春日をかすがとよむたぐひならむかといふ人あれど、これハ事のおもむきの似たる事なれど、しからず」【七夕という漢字を「たなばた」と読むのは、飛鳥と書いてあるものを「あすか」と読み、春日と書いてあるものを「かすが」と読むのと同じではないか、という人がいる。しかし、飛鳥、春日と七夕は似て非なるもので、問題の本質が違うのだ】と説く。「まづ飛鳥をあすか、春日をかすがなどよむハ、古書の上にこそさるたぐひの事ハ見ゆれ、中頃よりの事にいかでさることあらん。又、織女の事を七夕とかくハ飛鳥、春日のたぐひなりともいふべけれど、七日の夕の事を七夕とかきて、たなばたとよむをバ何とかいはん」【飛鳥を「あすか」春日を「かすが」と読むのは、古書にはそういうものがあるけれども、中世以降にそういう例はない。また、織女のことを「たなばた」と書くのは飛鳥や春日と同じ理屈ではないか、という人がいるけれども、七日の夕べのことを「七夕」と書いて「たなばた」と読むのは、なにをかいわんやというべきだ】として、以下が結論ということになる。
「何の鳥ともなくたヾとぶ鳥の事を、たヾちに飛鳥と書所の名ならで、たヾ春の日の事をたヾちに春日とかきてそれをあすか、かすがとよむべき事ハなきにて、同したぐひのならぬをしるべし」【それがなんの鳥であれ、飛んでいる鳥を飛鳥と書き、春のある一日を指して春日とは書くが、その場合はあくまでも「ひちょう」「しゅんじつ」と読み、「あすか」「かすが」とは読まないのと同じで、七夕と飛鳥、春日を同じに考えてはいけないのだ】という。確かに飛んでいる鳥はどこまで演繹しても「ひちょう」であって、「あすか」ではないし、春のある一日を指す「しゅんじつ」は、どう間違っても「かすが」ではない。ここらが日本語の微妙なところで、その微妙なところが日本語の特徴であり、日本語の面白さ、美しさでもあるから、こういう文章を読むと、表意文字に較べて表音文字はいかに味気ないものか、よく分かる。「かにかくに織女の事を七夕とかくハ、後の世の誤なる事疑ひなきをや」【そういうわけだから、織女のことを「たなばた」と書くのは後世の誤り以外、なにものでもない】としている。
ということは、棚機語源説を含む七夕の日そのものの名称、およびその読みについて論じているわけである。正しくは「棚機のあふ日」「棚機のあふ夜」というべきところを、「棚機の日」「棚機の夜」と簡略化され、さらに省略されて「棚機」だけになってしまった結果、「七夕」と書いて「たなばた」と意読するように転訛してしまったことになる。この読みについては『和歌布留の山不美』にも、『栄花物語』を引いて同じ文章が出てくるが、それはまた後のところで触れることにする。『栄花物語』にも「棚機のあふ日」を略して、「七夕」とした使用例はあるし、和歌のほうでも七夕の雲、七夕の雨と書いて「たなばたの雲」「たなばたの雨」と読むのは間違いではないとしているが、しかし、その和歌の中の詞として「たなばた」とあるものに、「七夕」という漢字を当てたら、それは間違い以外の何ものでもないから、結論として七夕という字を「たなばた」と読んだら間違いだという意味になる。そのわけは七夕を「たなばた」とはいうが、織女を「たなばた」と読む道理はないと説く。
論旨は分かるのだが、隔靴掻痒の感はどうしても拭えない。当り前といえばあまりにも当り前の話なのだが、もっと端的にいってくれという気がして、私のように気の短いものにとっては、ぐるぐる巻にして川へ流してしまいたいような議論である。結局、七夕と書いて「たなばた」と読むのと、飛鳥と書いて「あすか」、春日と書いて「かすが」と読むのは、似通ってはいるが話の筋が違うのだという。その理由として村田春海は問題の根底部分で、『和漢三才図会』がいうように、「七夕」の読みはあくまでも七日の夕べ、「しちせき」と読むのが正しいのだという論を踏まえているからだろう。つまり鳥が飛ぶ飛鳥、春の一日の春日を、それぞれ「ひちょう」「しゅんじつ」と読む流れからゆけば、「七夕」はあくまでも七日の夕方、「しちせき」であって「たなばた」ではないというわけである。言葉は生きものだから、時代の波によって動くことがままある。それは「あさがほ」「花は梅」「一所懸命」などに代表されるものと同じ方程式ではないかと思うが、そのへんをとことん突きつめてゆくと、だんだんと灰色の領域に隠れてしまう。
ここで先ほどから何度か引用した、『栄花物語』を見てゆく。この『栄花物語』は『栄華物語』とも、また『栄火』『世継』などとも呼ばれ、著者は赤染衛門とされている。その「たなばたのあふ日を略して、たなばたの日といへる事は栄花物語、はつ花の巻にも見へたり」という、その「はつ花の巻」には「七夕の日にもあひ別れにけりとぞ」とある。たったこの一文節だけだが、「七夕にもあひ別れ」ではなく「七夕の日にもあひ別れ」と、「七夕の日」としていることが問題の核心で、これを村田春海が引用している。問題は「七夕」にルビがないから、ちょっと見にはこの「七夕」を、「しちせき」と読ませるつもりだったのかとも思えるが、「しちせき」といったら七日の夕べという意味だから、「七夕の日」といったら、屋上屋を重ねるものいいになってしまう。従ってこの『栄花物語』では、「たなばた」と読ませると解釈するのが自然だろう。赤染衛門ほどの才媛がそんな不用意なものいいをするとは考えられない。当時の一流歌人として活躍していた人であり、『栄花物語』を書いた人とされているから、文才にも秀でていた人だからだ。
ここにもう一つの文献がある。先にちょっと触れた『和歌布留の山不美』で、これは私がふらりと立ち寄った骨董屋の店先で見つけた。上下が揃っていると申し分ないのだが、秋の部、冬の部の下巻だけしかなかったのは残念だった。町の骨董屋も利用の仕方一つで至って便利なもので、書画や陶器などの美術品に本物はまずないが、二束三文の本の場合は偽物を掴まされる心配はない。ちょっと矛盾したいい方になったが、高いものだからこそ偽造するわけで、二束三文の古本をわざわざ偽造しても、それこそ手間賃どころか経費さえ出ない。そんな馬鹿なことをするわけがないから、そこにあるものは本物ということになる。それが学術的に価値があるか、ないかは別問題として、人によっては貴重なものである場合がある。この本も長いこと店先で埃をかぶっていたらしく、虫食いだらけ、埃まみれになった汚い本で、内容にいくらかの違いがあるとしても、上田秋成の『七十二候集解』と共通する部分があり、いってみれば和歌歳時記といったようなもので、奥書がないから上巻に序文、著者名、発行者、刊行年月などが記載されているものと思われる。
下巻にはそれがないからいつどこで、誰が著したものか分からない。しかし、非常に達筆な手だから、そこらにざらにいる人ではないと思うが、この『和歌布留の山不美』に限らず、和書はほとんどの場合に変体仮名という、蚯蚓ののたくったような字で書かれているから、専門家のようにすらすら読めるというものではない。一冊の本を読むのにだいぶ時間がかかるとしても、読み解いてゆく過程が一つの楽しみでもある。ここでは各種の季語、というより歌題を簡単に解説し、そこへ短歌をつけているという体裁になっているから、形としては俳句の歳時記と同じもので、その中の「七夕」「乞巧奠」「七夕後朝」の三項をご紹介する。
まず「七夕」の項では「なぬかの夜」「なぬかのゆふべ」の傍題が二つあるだけで解説や短歌はない。ただ、こういうとき、どうしても表面的なところですらっと読み過ぎてしまうものだが、そこを立ち止まって読んでゆくと、ここでは七夕に「しちせき」というルビはないにしても、傍題で「なぬかの夜」「なぬかのゆふべ」といっているということは、実質的に「しちせき」と読んでいることになり、それが次の乞巧奠に繋がってゆく。ただし、「たなばた」の語源説では違いがあることを忘れてはならない。
二番目が「乞巧奠」で、「たなばたまつり」に続く文章が棚機語源説と「七夕」の読みの問題になる。それは「七夕をたなばたとよむハあやまり也。たなばたとは棚の高機にして高機ともいへるもの也。織女と云によりていへる也。たなはたつめは棚機女也、ひこほしとは牽牛にて犬かひ星也、彦ハ男の称也」【「七夕」を「たなばた」と読むのは間違いで、「たなはた」とは棚の高機、単に高機ともいうが、これは織女、つまり織り姫だから「たなはた」といったもので、「たなはたつめ」とは棚機女、高機織りの女で、彦星とは牽牛、つまり犬飼星である。「彦」とは男をいう】とあり、七夕を「たなばた」と読むのは間違いだといっているから、ここまでは『織錦斎随筆』と同じだが、その先が違ってくる。織姫だから「たなはたつめ」で、それが縮んだ形の「たなはた」だとしている。
続けて歌題がずらっと並んでいるが、このころの文章は濁点、句読点のないものが多いから、そこは読むほうが補足するしかない。ほし合の空、ほしのあふ夜、まれにあふ、ほしまつる、妻むかへ舟、天の川をば、天の川こぐ、天の川瀬、天の安川、天の岩舟、天の川はし、玉ハし、けふの舟出、紅葉の橋、かさゝぎの橋、としの渡り、八十の舟津、波のうき橋、天の玉床、八十瀬舟、たきもの、露ふむ、かちわたり、ともし妻、一夜づま、浅瀬ふむ、雲の衣、庭のともし火、まれのあふ瀬、天津ひれふる、天の羽衣、花染衣、よハの下帯、いほはた、花かづら、いつはた衣、かすいと、七の緒琴、香のけぶり、契りまつ、かざしの花、たらひの水、手向る琴、手向の糸、梶の七葉、梶がことのは、手向の七種、かせる衣、雲のとバり、雲の衣、妻こひ衣、衣の妻、行合の空、秋のななくさ、萩の花、尾ばな、葛花、なでしこの花、女郎花、藤ばかま、朝がほの花、けふのこよひ、水かけ草、秋のひと夜、秋のともし空、秋霧のとばり、秋あさき、雲の通路、手引の糸、月の御舟、柵はしわたし、うちわたす、草の露、ほしのまつり、はたおる虫、よつのを琴、みこもり草、秋さり衣、秋風、月ひと男。
ざっとこんなふうだが、これらは結果的に季語も含まれている。しかし、これはあくまで歌題であって季語ではない。「たきもの」が重複しているのはご愛嬌だが、この本はそれぞれの項目について、その名所も挙げており、七夕では「名所にてハ河内の天の川、伊勢の星合の浜などにかけてよめり」とあって、「天の川紅葉を橋に渡せばやたなはたつめの秋をしも待 読人不知」など、万葉集ほかから十六首が添えられて乞巧奠の項を閉じている。
次に「七夕後朝」だから、これは八日の未明ということになる。後朝には必ず男から女に文を贈るしきたりがあった。文といっても必ずしも文章ではなく、短歌を贈るのが習わしで、その「七夕後朝」の下に、「のちのあした」とあり、行を変えて「たなバたの渡るあしたのさま也。暁雲をなみだにかかれとしてよめり」と解説している。暁の雲が別れの涙に掻き暮れて見えないなどと、よくもまあ、ぬけぬけといったものだが、このころはこのくらいの修辞法を会得していないと、女を口説く資格はなかったということだろうか。これは『和漢三才図会』と、読売新聞編集手帳のところで紹介した、洒涙雨を踏まえていることはいうまでもない。
こちらの傍題は限りありて、わかるるあした、かへさの袖、立帰る天の川浪、あかぬわかれ、かへさのふね、をしむ露、暁の雲、あけぬこの夜、つまおくり舟、後のあふ瀬、雲のちぎり、天の戸明る、明るほどなき、天の川かへらぬ水、思ひのけぶり、涙の露、袖ぬれぬ、つらきわかれ、朝戸あけて、などとしてあとに添えた短歌も古今集の「けふよりは今みん年のきのふをばいつしかとのみ待わたるべき」以下七首しかなく、乞巧奠の項に比べると歌題も短歌も少ない。こういうものを見てくると、いかにいわないかを身上とする俳句と、いかに叙べるかという短歌の違いが、よく見えてくる題である。以上が七夕の棚機語源説と「七夕」の読み方で、「七夕」を「しちせき」と読まず、「たなばた」と読むのは誤りであるとする説である。
対する新井白蛾著『烟霞綺談』は、牽牛と織女は農耕と機織を管掌するところから、種物、機物の「物」が略された形の「たねはた」という、種機語源説をとっている。曰く、「七月七日、牽牛織女の事、諸書に出たり。たなばたと和訓せしは、二星は耕作、蚕織を主どるゆへに種物、機物二つを下、略してたねはたと訓ず。楮の葉に歌を書き、衣類を手向とするも此まつりの一端なるか。楮は上古の衣服なり」とあり、こちらには「七夕」の読みに関する記述はない。牽牛と織女は農耕と機織を管轄しており、織女には梶の葉に歌を書いて、星の貸物をするのだとしている。「衣類を手向とする」というのは「星の貸物」で、織り姫が機を織るとき、糸が足りなくならないように貸すという意味で小袖を竹にかけ、七夕竹の脇に立てたもので貸小袖、あるいは星の貸物ともいい、これも七夕まつりの一環である。
楮はいまは紙の原料とするほうが多いが、もともとは衣類の原料ということから、その象徴として梶の葉を用いるが、『烟霞綺談』はさらに続けていう。「又此日硯机を洗ふ。是も古人、故ありて始まるなり。七月七日に限らず、毎月七日、朝四ツ時前に木枕其外、油付きたるものを常の水にて洗ふに、悉く垢おちて油気なし。(中略)かうぞを『かぞ』といふは自然に中略にかなふ。又かぢ、かぞ音通ず」としているが、洗硯の起源にはとくに触れていない。
次は喜田川守貞の『近世風俗志』で、これは一般に『守貞漫稿』といわれている。「七月七日、今夜ヲ七夕ト云」では「タナバタト訓ズ、五節ノ一ナリ」というから、七夕の読みとしては『和漢三才図会』『織錦斎随筆』『和歌不留の山不美』などとは真っ向から対立している。「孝謙天皇、天平勝宝七年七月七日、始メテ乞巧奠ヲ設クル」としてあるから、日本での乞巧奠の起源について他の文献と違いはない。「今世、大阪ニテハ手跡ヲ習フ児童ノミ五色ノ短冊、色紙等ニ詩歌ヲ書シテ青笹ニ数々コレヲ附ケ、寺屋ト号スル芸道師家ニ持集リ、七夕二星ノ掛物ヲカケ、太鼓ナド打チテ終日遊ブコトナリ」というから、寺子屋の休講日、いまでいえば休校となって勉強はお休み、みんなが七夕を祝う日となって、寺子屋に通う大阪の洟垂れたちにとって楽しい一日だったようだ。
これが江戸となると、「児アル家モナキ屋モ、貧富大小ノ差別ナク、毎戸必ズ青竹ニ短冊、色紙ヲ付シテ高ク屋上ニ建ツルコト、大阪ノ四月八日ノ花ノゴトシ」と描写しているから江戸の七夕は潅仏、花祭りのようだったのだろう。その様子は「種々ノ造リ物ヲ付スルモアリ。モツトモ色紙短冊ハ、トモニ半紙ノ染紙ナリ。カクノゴトク江戸ニテ、コノコト盛ンナル、オヨビ雛祭ノ昌ナルハ、市中ノ子女、多ク大名ニ奉公セシモノドモニテ、トカクニ大名奥ノ真似ヲナシ、女ニ係ル式ハ盛ンナルナリ」といっているから、いまも昔も男どもは女に敵わなかったということである。富商の娘は行儀見習いを兼ねて、大名家などに上がるものが多かった。
そこで見聞した武士階級の風習を実家に持ち込んだから、それが次第に一般化してゆく。江戸の男は外に出て働き、家族を食わせてゆかなければならないが、女は家を守るものとして暇を持て余していたから、考えようによっては、それも自然な成り行きといえる。「故ニ男ノ式ハ行ハレズ、形バカリニテ、女式ハ昌ナリ」というわけで、いまも昔も男は女に頭が上がらなかったようで、江戸時代には亭主が字を書けないとき、半紙に筆で縦に三本半の線を引き、これを三下り半、離縁状として通用したなどという話は、女房がよほどひどいことをしない限り、半ば建前に過ぎなかったというのが実情だったろう。
七夕竹に飾るものは、「昔ハ家々自造シテ興トス」とあり、それぞれの家ごとに、自分で作って飾ったものだが「今ハホゝヅキ形、帳面ノ形、西瓜ヲ切リタル形、筆形等、マタ枕ノ引出ヨリ、灸ノ出タル形ナド売ル」と続くから、この本が著された幕末、天保年間の江戸では、七夕飾りに使うものは市販されていたことになる。なかには人と同じ物では嫌だということで、「稀ニ自作シテ、種々ノ形ヲ付スルモノ往々コレアリ」ということになる。「作リ物多クハ竹骨ヲ用ヒ紙ヲ張ル。梶ノ葉、クゝリ猿、瓢等ハ紙ニテ切リタルノミ。作リ物ハ全形ヲ模ス」簡単なものは紙を切り抜いただけのものだが、作り物、すなわち細工物は竹ヒゴなどで形を作り、紙を張って仕上げたものらしい。だから当日に飾って楽しむだけではなく、細工物は前々から楽しみながら作っていたのだろう。こどもらにとっても工作の勉強に相当していたわけだ。
男の子はそんなところだが、女の子のほうはぐんと派手になる。「七夕踊リノ古図」として、赤い日傘を差した挿絵があり、「小町踊ト云フモスナハチコレナリ」とある。その様子は「踊子七人ノ太鼓、金アルヒハ銀、アルヒハ朱ナリ。撥ハ皆黒、鉢巻、紫アルヒハ紅、アルヒハ萌黄等ナリ」として、「踊子七人、各太鼓ヲ打チ輪形ニ列ス。ソノ扮、皆相似テ服紋ノ異ナルノミ」というもので、一グループ七人で構成され、鳴り物入り踊り子団ということになる。それが「男ノハテノヤウニ育ツ娘、七夕ノ掛踊ニ母ノ親愛ダテナク、緞子ノ鉢巻、光綾綸子ノ襷、髪ハアマタノ辻ニ立カケ、繻珍ノ着物ニ緋綸子ノ下着ヲホノメカセ、毛琉ノ帯ニ紫縮緬ノ抱帯、紫足袋ニ尻切ヲハカセ、金ノ太鼓ニ塗撥、鶴亀カイタル日傘ニ、布袋カイタル鉑絵ノ団」というから、それぞれの装束や道具類を揃えるだけでも馬鹿にならない金額になるから、とても長屋住まいの熊さん、八っつあんのような、その日暮らしのものに出来るものではない。当然、こういう集団には乳母もいて、「乳母バカリハ古今カハラズ、コノ子ヲ笠ニ着テ、横平タイ尻ニ金入リノ帯シドケナク、地黒ニ羽団ノ大模様ノ縫入レノ帷子、十四、五ナル小女郎ニ、カノ養君ト己ガ身ヲアフガレテ行クノミナラズ」付き添いの乳母が主人の娘を笠に着て大きな顔をし、お供に煽がせてゆくという図になる。
この七夕踊りがある年月をかけて、次第に盆踊りに流通してゆく。『近世風俗志』は書名を挙げず、江戸時代の書き物によればと断った上で「昔ハ七月六日コロヨリ小町踊ト云フコトハヤリ、七、八歳ゴロノ女子、紅絹ノ裂レ金入ナドニテ鉢巻ヲサセ、下髪頭ニ造花ヲ飾リ、色々美シキ手襷ヲカケテ、伊達ナル染模様ヲ着セ、団太鼓ニ総ヲ付シタルヲ持タセ、四五人モ召仕フホドノ町人ノ娘ハ肩ニ乗セ、乳母、抱守等ツキソヒテ日傘ヲササセ、ソノホカ大勢、娘、子供、手ヲ曳キ」というから、前記のものとほぼ同様だが、禁止令によって次第に華美を慎むようになる。「唄ヒ歩行キシガ、近年イツシカ止ミテ、衣裳ヲ更メテアルク子供ハナク、ヤウヤウ二、三人連レテ歩行クコトトハナリシ」と下火になってゆく。需要が減れば売れないわけで、「ソレ故団太鼓、並ニ鬼灯提灯、黒キ筥提灯ニ踊絵、火消ナド画キタル挑灯売リアルクコトモ止ミシ云々」ということになる。そして「右ノゴトク昔ハ三都トモ七夕、オヨビ盆踊ハナハダ行ハレケルナリ」と書かれているように、過渡期の姿として七夕踊りが盆踊りに流通していたが、だんだん「七夕踊ハ更ニ絶ヘシ、盆踊ノミ」と、はっきり盆踊りだけになってしまう。歌の文句ではないが、時代は回るというところだろう。このころになると∧七夕や先づ寄りあいて踊り初め 惟然∨という風景は影を潜めてしまったわけだ。
ここまで和漢の各種の文献に拠って七夕を見てきたが、日本では古くから七夕は文学的に絶好の素材として、『源氏物語』『万葉集』を始め俳諧関係でも枚挙に暇ない。∧七夕竹惜命の文字隠れなし 波郷∨などは、俳人なら誰でも知っている句だし、幼稚園や小、中学校くらいまでは情操教育の一環として、必須ともいえる行事になっている。これほど社会に溶け込んでいる行事はないから、まさに日本人の遺伝子レベルにまで浸透しているが、その起源は前述したように遠く西域から中国、そして日本に伝来したものである。
遊里の巷で「たなばたさん」といえば、きわめて稀にしかこない客をいうから、常連客は「たなばたさん」にはなれない。この「たなばたさん」は「いちげんさん」よりいくらかまし、粗略な客の代名詞であるわけだ。日本人の美意識からすれば、七夕の興趣を殺ぐこと夥しい用例ではあるが、その日本にあっても七夕は徐々に変化し、薄れてゆき、いまでは学校行事の一環か、または商魂に取り入れられ、大売り出しの名目にその名を残すのみというのが現状だろう。